対談記事「運命の一冊に出会うために」 純文学のススメ


「運命の一冊に出会うために」は藤原正彦氏と林真理子氏の対談記事である。「人生を決めた本」というテーマのもと二人が幼い頃から現在に至るまでの出会い、影響を受けた本について語られる。ここで紹介される本は『風と共に去りぬ』をはじめ、『限りなく透明に近いブルー』『野菊の墓』『平家物語』『チボー家の人々』などジャンルや年代が異なる日本と海外の作品である。本棚は家の財産であり、本は世代を超えて伝わっていくものだと述べられている。


 この記事では藤原正彦氏と林真理子氏が影響を受けた沢山の本について語っている。その中で私が印象に残っている一節がある。林氏の「純文学が今のエンタメ小説のように読まれた最後の時代だったのかもしれません。」という言葉である。これは村上龍著の『限りなく透明に近いブルー』についてのコメントだ。

 私自身、中学時代に初めてこの本を読み、度肝を抜かれた。鮮やかに描かれる暴力的な描写はとても痛々しく、中学生だった私は初めて本を読み進めることに恐怖を感じた。しかし、それと同時に読み進められずにはいられないほどの魅力的な文章の羅列に圧倒された。自分の感覚を超えて小説の世界に入り込むということに夢中になった。これを機に私は純文学に魅了されていった。

 純文学はつまらなくて難しいという印象は広く持たれているものである。しかし、純文学の面白さはストーリー性ではなく文章力の秀逸さによるものである。

「僕は三度繰り返せば、この「話」のない小説を最上のものとは思つてゐない。が、若し「純粋な」と云ふ点から見れば、――通俗的興味のないと云ふ点から見れば、最も純粋な小説である。」

芥川龍之介が『文芸的な、余りに文芸的な』において谷崎潤一郎にこう反論したように、純粋に文章の美しさだけで描かれる小説があることこそが文学の可能性を示唆している。純文学は難しい、だからこそ純粋な小説というものを堪能することができる。大衆文学とは違い、映像化されることも話題に上がることも極めて少ないが、文章が持つ最大の効力を得ることができる。

 現代人は忙しい。故にショート動画が流行り、映画を倍速で視聴し、あらすじと結末を検索して流行りの物語についていこうとする。しかし、それは娯楽としての機能を果たしていないように思う。たまにはゆっくりと純文学の世界に浸り、娯楽としての小説を楽しめれば良いと思う。


引用 

『運命の一冊に出会うために』 藤原正彦×林真理子 文藝春秋
『文芸的な、余りに文芸的な』 芥川龍之介著

 

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