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コラム16「さよならだけが人生ならば。」

**2018年6月2日(土)
八重山日報・沖縄本島版

※※コラム『ちゅうざんの車窓から』※※

NO.16「さよならだけが人生ならば。」**



**「花に嵐のたとえもあるさ さよならだけが人生だ」。という言葉をご存知でしょうか。昔、唐の詩人・于武陵(うぶりょう)という人物が書いた五言絶句の「勧酒」という唐詩を、日本の作家・井伏鱒二(いぶせますじ)が訳した一節です。寺山修司をはじめ、多くの作家やアーティストたちにも愛されたこの言葉は、もはや元の詩を離れて一人歩きしているほど有名な言葉となっています。

 ちなみに、翻訳の前半部分も引用すると「この杯を受けてくれ どうぞなみなみ注がしておくれ 花に嵐のたとえもあるぞ さよならだけが人生だ」とあります。翻訳の解釈を巡っては諸説ありますが、生きていく中で決して避けては通れない“別れ”こそが、人生そのものなのだと捉える声も多々あるようです。私もそのように捉えていたので、これまでこの言葉に心から共感したことはありませんでした。別れの種類や程度はあるにせよ、さよなら“だけが”人生だと言い切るのは、あまりにも辛すぎるように思えたからです。どんなに美しく咲いている花も突然の嵐で散ってしまうこともあるように、自然災害や不慮の事故による別れもある。人間の力では抗えない圧倒的な儚さが人生にはあるのだと頭では分かっていても、心が、気持ちが追いつかなければ、それは辛く悲しいだけのように思えるものです。

 別れには色々な形があり、信じ合っていた者同士が互いに背を向けて振り返りもせずに別れる「決別」や、愛し合っているはずの二人が別れなければならない「惜別」もあります。周囲の状況に引き離される別れだってあるのです。そうした、さよならの度合いが強い瞬間にこそ、私たちはその儚さや切なさの中に人生を見るのかもしれませんね。だからこそ、別れを経験する度に、辛い夜をひとり耐える度に、周囲のやさしさや温もりに気付くことができ、やがて顔を上げて前を向くことができると思うのです。

 人生にタラレバはなく、時間を巻き戻したり別れた相手との関係を元に戻すことはできません。しかし、私たちには別れがあるからこそ、新たな日々に出会うことができるのです。さよならだけが人生ならば、せめて過ぎ去った人たちのしあわせを願い続ける自分でありたい。そんなことを考えてしまいます。**

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