友達が余命1ヶ月で亡くなった
自粛期間が終わって学校に行ったら、友達が亡くなっていたと聞いた。白血病だった。病気が判明してから1ヶ月少しで亡くなってしまった。
衝撃的な報告を受けて、考えたことを残したいと思う。
①あと1ヶ月で命が終わったら
「余命1ヶ月だったら」というようなことは、よく考えていた。もうそうなったら、ロリータを着て街を歩いて、告白できなかった好きな子に告白して、遺書を書いて…。けど、本当に終わると考えたことはない。
私は、友達が余命1ヶ月を経験したと聞き、もし今日からあと1ヶ月で死ぬとしたら?と考えてみた。めちゃくちゃ怖かった。将来のための勉強が全て無駄になるし、もう雪も桜も花火も見れないし、妹が高校に行く姿も見れないし、ドラマを最後まで見れないし、20歳の私も存在しない。私の記憶が全てここで終わり、蘇ることなんてない。すっっごく怖い。
②誰にでもおこる
なんやかんやいいつつ、「自分は病気にならないし、長生きするだろう」と思っている。それに、普通に将来のことも考えているし、花見とか「めんどくさいし来年しよー」と毎年そう言って行かない。けど、来年が必ず来るわけじゃない。
今も呑気にnoteを書いているが、もしかしたら、私はあと1ヶ月後には死んでいるかもしれない。そうでなくても、2年後とか3年後には不治の病にうなされているかもしれない。このnoteを読んでくださった方も、明日には死んでいるかもしれないし、数時間後に余命宣告されるかもしれない。希望に溢れている10代で、その未来すらないことを想像なんてできない。
③友の「死」を教訓にしていいものなのか
友達が亡くなったとき、あまりの衝撃に耐えられなくて、家族に話した。すると、「人はそうやって死を覚えて、強くなっていく」と言われた。私は、その言葉に違和感を覚えた。「じゃあ、その子は死を覚える前に死と対面したの?」「友達の死から何かを学んで、友達の死を意味のあるものにしたくない」。
けど、皮肉なもので、私は友達の死から学び成長してしまっている。すごく悔しい。その子は私のために死んだわけじゃない、皆に死を教えるために生まれてきたわけじゃない。1人の女の子が未知の死に怯えながら死んでいったのに、私たちはそれをダシにするのか。
④死は、意味のあるものにすべきなのか
これは、③にも関連している。私は、友達の死を無駄にしたくないという思いと、友達の死を私にとっての利益にしたくないという思いがある。前者はもちろん、無駄死ににしたくないという意味である。そして後者は、友達の死から何かを学ぶことで、あたかも「友達の死が私にとって良い経験」となってしまうことを避けたいということである。友達の死は、私にとって最悪なことである。だからこそ、友達の死が、私にとってのプラスに働くのは嫌なことなのである。
⑤周りはそれほど変わらない
人の死を見たら、人は変わるんだろうなと、漠然と思っていた。しかし、それほど変わらない。変わっているのかも知らないが、想像していたほどではない。友達の死を知ってからしばらくは、「死」「諦め」といった言葉を誰も発しなかった。だが、数ヶ月たった今、冗談で「死ぬ〜!笑」といった発言をよく聞く。皆、見える限りでは何かに挑戦もしていない。友達が亡くなる前と、変わらない行動をとっているように見える。
⑥その子の名前を出さないことが暗黙の了解
その子は、仲良し5人グループのうちの1人であった。しかし、今は4人グループになってしまったのである。初めこそは腫れ物を扱うような雰囲気が出てきたが、今では、元から4人グループであったような空気の流れになっている。「4人は本当に仲良いね」「今日も4人で外食するの?」みんな、忘れてはいない。でも、口に出すのは間違いだから、初めから4人グループだったように接している。これが常識なんだろうけど、怖い。
以上が、考えたことである。
死を知って、数ヶ月後noteに記そうと思い、完成したのは死を知ってから5ヶ月後。ここでもう一度書く、亡くなった友達は病気判明から余命1ヶ月だった。
私はこの5ヶ月間、頭からその友達が離れず、まだ立ち直れていない。けど、この5ヶ月は一瞬だった。
5ヶ月が一瞬なら、1ヶ月はどれほど短いのだろう。