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NO MORE Hiroshima

1945年(昭和20年)・8月6日(月曜日)・午前8時15分
アメリカ合衆国は、人口約35万人の広島市に原子爆弾リトルボーイを投下
人類史上初の都市への核攻撃
原爆によって亡くなった人の数は、今もまだ正確には分かっていない。
広島市によると、放射線による急性障害が一応おさまった昭和20年(1945年)12月末までに、約14万人が亡くなられたと推計している。

2024年8月6日 広島原爆の日から79年
あの日のことを語り伝えてくれた大阪府寝屋川市にお住まいの被爆者、山下しのぶさん(広島)と今井セイ子さん(長崎)の被爆体験をここに書き残します。
決して忘れることのないように。

広島出身 山下しのぶさん(81歳)
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 広島で2歳の時に原爆にあいました。
 あれから79年ですけども、今現在はご覧の通り元気にしております。
 私は、ちょうど2キロのところで被爆しました。2キロの範囲というのは、だいたい幼児は8割くらい亡くなったそうです。だから私は、2割の生き残りだと思って、奇跡の子だと自負しております。
 私は被爆当時は一人っ子で、父母の2人の助けを借りることができたので逃げることができたのだと思います。その時、母のお腹には妹がいたのですがまだ妊娠に気付いていなかったくらいの時でしたが、妹は体内被爆をしました。
 あの当時は、外でみんなで遊んでいて、2歳半の私の遊びというのは手押し車をカタカタと1人で押すことでした。手押し車を押し遊んでいる時に原爆が落ち、光った時には爆風で家の中に飛ばされて、玄関にいた父とぶつかり、それと同時に屋根が落ちてきて、父と2人玄関で屋根の下敷きになったのですが、幸いなことに玄関に置いてあった自転車が支えになり、2人とも怪我をすることはなかったと聞きました。もう一つ幸いだったことは、落ちてきたのが玄関の屋根だったので普通の屋根よりはちょっと小さいので、父が破って外に出ることができました。
 母は、家の裏で洗濯物を干していたので爆風で家の間に挟まれ、目などを打撲して大変でしたが、なんとか助け出すことができて3人で火の来る前に田舎の方へ逃げることができました。母は打撲した目がものすごく腫れて、あの当時は家の前に防火用水が置かれていて、その防火用水で目を洗ったことを覚えています。今でいうと綺麗な水では無いと思うのですが、青黒く腫れた目を洗っていました。母は被爆から6年後、30歳で他界したのですが、木が刺さったアザが死ぬまでずっとありました。
 隣の家もやっぱり爆風で家が潰れ、おばさんは家の大きな梁の下敷きになり、父1人では梁を持ち上げることができず、おばさんをそのまま見殺しにしてしまったと、阪神淡路大震災の時の火事を見た時に、私に話してくれました。多分、ずっと心に思っていたんだろうと思います。

 父の里は岸和田市です。電車が通るようになってから、岸和田に引き上げました。その時の家の前のお医者さんが、多分、軍医さんで引き上げてきたんだろうと思うのですが、私に1ヶ月ビタミン注射をしてくれたんだそうです。後から、おばさんにその話を聞いた時に、その注射のおかげで、あまり後遺症が残っていないのかなと思いました。
 数ヶ月後に一度広島へ帰って、妹が体内被爆で産まれました。妹は原爆小頭症にはならなくて、現在も生きております。直腸癌で人工肛門になっていますが元気でおります。

 30歳で亡くなった母は、当時は、遺体を病院からABCC(原爆障害調査委員会)に持って行って強制解剖。否応なく解剖されて、遺体はちゃんと帰ってきたのですが、結果の報告は全く無かったと聞いています。標本がアメリカから広島大学に返されましたよね。広島大学まで行けばあるかもしれないと誰かが言っていたけど、、、。
なぜか私が高校の頃、広島市役所からその後どうなっていますか?という調査が来ました。その当時、父と2人でどうなっているんだろうと思いました。
そして一昨年、広島に行った時に慰霊塔の中に母の名前が入っているか市役所で調べました。そしたら入っていなくて、その場で入れてもらいました。8月5日にお願いをして明日(6日)には入れますと言ってすぐに入れてくれました。
父の場合は東京で亡くなったので、保健所を通じて入れてもらえるようにしました。

寝屋川被爆者の会 山下しのぶさん



質) 川中 ▶︎原爆が投下された時、お父さんはいらっしゃったということですが、徴兵へは行かれなかったのですか?

私の父は大工でしたので、徴兵に行ず、広島港で輸送船を民間船にカモフラージュして使っていたので、その徴用に行っていました。毎日、徴用で広島港に行っていて、原爆投下の朝8時15分は、まだ家にいました。

寝屋川被爆者の会 山下しのぶさん



質) 川中 ▶︎岸田首相は、NPT体制(核拡散防止条約)などは核兵器を無くすためには現実的だけれども、核兵器禁止条約は現実的でないとご自身の著書で書かれています。このことについて、被爆者としてどのようにお考えか聞かせてください。

核兵器を持つ必要がないと思います。持ちませんという方が現実的ですよね。今の水素爆弾は、広島型の約1000倍ですよね。小型になってますが、約1000倍です。
日本の場合は、海で囲まれていますから周りの国にあまり影響ないですが、もしプーチンさんがウクライナで使ったら、自分の国にも影響すると思うんです。そういうことは考えないのかなと不思議に思います。
核兵器というのは、その場が全部壊れるというだけではなくて、放射能で後々ずっと後遺症が残って、ずっと苦しむわけです。戦争の場で、原爆投下の後のあれだけが被害ではないということです。人間だけでなく、他の生物にも放射能の影響は出るわけだから、やっぱり核兵器は持ってはいけないと思います

寝屋川被爆者の会 山下しのぶさん


質)川中 ▶︎ 岸田首相に対して何か訴えたいことはありますか。

 最初は広島出身で期待したんですけども、今は期待はありません。
期待を裏切ってくれたと思います。
核兵器による抑止を肯定するような話をしたでしょ。それはまず日本としては間違っていると思います。

寝屋川被爆者の会 山下しのぶさん


質)橋口大阪原水協事務局長 ▶︎被爆者として色々と病気もされたと思うのですけども、よく言われている差別があるので被爆者ということを隠していたという経験はありますか。

私は育ったのが山口県岩国市で、広島のすぐ近く県境ですので、岩国市は被爆者が結構たくさんいて、健康診断もその当時から保健所で受けていたので、人数も1日で終わらないくらいたくさんいたので、自分ではそういう意識もなく差別されたということもなかったです。寝屋川に来て、寝屋川被爆者の会に入って他の人の話を聞くと、ずっと隠していて手帳を貰うのが遅くなったとか、そういう話を聞いて本当に差別があったんだなと思いました。
結婚した時には主人には全部本当のことを言って、多分、主人の兄弟はちょっと思ったのかなと思いましたが、何も言わなかったです。だけども子どもが産まれた時に、私の妹に「普通に五体満足で産まれてよかった」とぼそっと言ったそうです。やっぱり心配はあるんだと思いました。
私も孫が産まれた時に三世になりますけども、五体満足かな?と最初に思いましたから。遺伝があるかもしれないとずっと心の中にはある心配は、被爆者は全員が抱えている問題じゃないかなと思います。二世の人は体の弱い人は結構いますから。
私たち被爆者は医療費が免除されて優遇されていますけども、それを免除されているのが気に食わなくてそれを揶揄する人はいるみたいです。同じ被爆者の会の人がそういう目にあったという話はよく聞きます。
お医者巡りをするようなことはしてません。

寝屋川被爆者の会 山下しのぶさん



質)橋口大阪原水協事務局長 ▶︎第五福竜丸で被爆された人で、最終的にアメリカが責任は認めなかったけども見舞金を出して、第五福龍竜丸の乗組員に渡っていますが、その時に妬みがひどく焼津に居ることができなくなり、東京に行ったというかたもいらっしゃったのですが、そういうものがどこかあるんですね。

政府も悪いです。第五福竜丸だけではなく高知の方もちゃんと調べて、アメリカが出さないのであれば、せめて今の被爆者並みに高知の漁民の人にも、今の福島の人にも何か考えてあげないといけないと思います。

寝屋川被爆者の会 山下しのぶさん


質)橋口大阪原水協事務局長 ▶︎ビキニでの実験で被爆した船というのは、第五福竜丸だけではなく、日本のマグロ漁船だけでも約1000隻くらいと言われています。他の人は何の保証も無かった。

健康診断も無いと聞きます。

寝屋川被爆者の会 山下しのぶさん

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