1945年(昭和20年)・8月9日(木曜日)・午前11時2分
アメリカ合衆国は、人口約24万人の長崎市に、日本に2つ目の原子爆弾ファトマンを投下。3日前に広島に投下されたウランを原料としたものとは異なり、プルトニウムを原料にした広島型の約1.3倍の強い原子爆弾だった。一瞬で長崎の街は廃墟となり、死傷者は約7万4千人(推定)。この日以降、街への原子爆弾投下は一度もない。
2024年8月6日 長崎原爆の日から79年
あの日のことを語り伝えてくれた大阪寝屋川市にお住まいの被爆者、山下しのぶさん(広島)と今井セイ子さん(長崎)の被爆体験をここに書き残します。
決して忘れることのないように。
質) 川中 ▶︎原爆が投下された時、お父さんはいらっしゃったということですが、徴兵へは行かれなかったのですか?
質) 川中 ▶︎岸田首相は、NPT体制(核拡散防止条約)などは核兵器を無くすためには現実的だけれども、核兵器禁止条約は現実的でないとご自身nの著書で書かれています。このことについて、被爆者としてどのようにお考えか聞かせてください。
質) 川中 ▶︎岸田首相に対して何か訴えたいことはありますか。
質) 橋口大阪原水協事務局長 ▶︎被爆者として色々と病気もされたと思うのですけども、よく言われている差別があるので被爆者ということを隠していたという経験はありますか。
質) 橋口大阪原水協事務局長 ▶︎当時のことを喋れる人ってのはなかなかいないですよね。