借りパク奇譚(8)
「タイヤを借りた日の夜、時間は7時くらいだったでしょうか。携帯の電波が通じるところまでやって来ると、僕はすぐに男性に電話をかけました。とにかくもう一度お礼が言いたかったんです。ところが男性は出ませんでした。まあ、こちらが勝手なタイミングでかけている訳ですから、仕方ないと思って、その日はそれで諦めました。
翌日、タイミングもみて僕は再度電話しました。しかし、やはり繋がりません。その日は時間を置いてそれから何度かかけてみましたが結局つながりませんでした。そして、次の日も、また次の日も結果は同じでした。以後、何度かけても男性に繋がることはありませんでした。もちろんコール音はなっているので、電話番号が間違っているわけではないようでした。
あとは大体ご想像通りです。もちろん住所はわかっていましたから、訪ねることはできました。ただ、それをしなかった。いきなり訪ねて留守だったら? なんてくだらない心配をして。だけど今思えばそれも言い訳ですね。ただ、それをするのがめんどくさかったんでしょう。電話が繋がらないのだからしょうがないと、そんな甘えがあったのも事実です」
「すみません、もらった電話番号は携帯電話だったんですか? それとも固定電話ですか?」
おれはそこで質問を挟んだ。
「携帯電話です」
「男性が自分の番号を書き間違えたということはないのでしょうか?」
「はい。その可能性も考えました。ただ、そうであれば、間違われた人が電話に出るか、着信拒否に登録するのではないかと思ったんです。僕はその番号にしつこく電話していましたから」
「まあ、そうですね」
「そうこうしているうち、ある時、引っ越しのタイミングで連絡先を書いたメモもなくしてしまったんです。だから住所がわからなくなってしまって、とうとう返す術をなくしてしまいました。
本当にダメな人間だと思います。あれほどの恩がありながら、めんどくさがってしまった。ただ、ずっと心につっかかっているんです。
自業自得のくせに罪悪感から開放されたくて必死になっている。本当に自分はバカだと……ただ、こんな僕も親になります。なんでしょうね。これから子供に生き方をみられると思うと、いい加減なことはできない。そう感じているんです。すみません、長くつまらない話、失礼しました。僕の話は以上です」
いきなり現れてタイヤを貸すだけ貸して音信不通になってしまった男。なんとも不思議な話である。貸主と音信不通になってしまったというのはおれと同じだ。こういった場合は返せなくても仕方ないんじゃないかと思うのはおれだけだろうか? 亮潤様はボンネの話をどう思ったのか。おれはチラッと亮潤を見やる────山のようだ……。おれは思う。圧倒的な存在感でどっしりとそこに存在し、目を閉じたまま、開始の時の姿勢のまま微動だにしない亮潤様。だんまりを決め込んでいるところを見ると、特に個々の話に対して意見をするつもりはないということだろうか?
「借りたタイヤはその後どうしたんですか?」
山田が質問する。
「ある時使い物にならなくなり、処分してしまいました」
「そうなんですね」
借りたタイヤもダメになってしまったのか。タイヤなんてそんなしょっちゅうダメになるものなのか? そんな経験が全くないおれにはよくわからない話だった。
「じゃあ次に私、いいでしょうか」
若干の沈黙がおとずれ、おれはここだ! と名乗り出る。クロエや山田の話はじっくり聞きたい。自分のあまり盛り上がらなさそうな話など、とっとと片付けてしまいたかった。
「お願いします、たけさん」
と、すかさずいらん合いの手を入れる『ウザバルジャン』。 イラッとしつつ、おれは大学時代、トオルさんから借りた本の話をした。
改めて人に話してみると、おれの話も変な話だった。一方的に文庫本を貸して消えた男。顔もおぼろげなトオルさんは、今元気でやっているのだろうか?
「本筋から逸れるかもしれませんが、それは、なんの小説だったんですか?」
クロエがおれに質問する。
「それなんですが……」
おれは少し考え込む、おれもずっとそれが気になっていた。ただ、どうしても思い出せ…………!?
「……『地下街の人びと』……『地下街の人びと』っていう小説でした」
どうしてか? 急に記憶が蘇り、おれはそう口にする。
「えっ!?…………それってジャック・ケルアックの小説ですよね!」
明らかにクロエの瞳孔が開いた。
彼女が初めて見せる感情の揺らぎ、彼女は動揺し、少し興奮しているようにも見えた。
完全に思い出した。そうだ、あれはケルアックの小説だった。とある女との出会いから別れまでを描いた、身勝手な男の恋の話。女の最後の台詞が印象的だった。『あなた次第なのよ────どのくらいのペースで私に会いたいかとか────私は私でいたいの』
「そうです。思い出しました。ケルアックです。ビートニクでしたっけ? 文体が独特で、まあ翻訳ですけど、読み切るのにとても苦労したのを覚えてます。クロエさんはケルアックがお好きなんですか?」
「……いえ、私、文学には疎くて。ただ───」
「私はドフトエフスキーが好きですね」
といきなり『ワリコミジャン』。
「『ドフ』ではなく『ドス』です。ドストエフスキー」
知ったか『ブリバルジャン』をおれは潰す。
「ああ、『カラマーゾフの姉妹』でしたっけ?」
と、どうしてもボケたいらしい『ボケネ』。
「そうそう、あれいいですよね」
と間違ってるのに調子を合わせる『ブリバルジャン』。
ブラザーだろぉがぁ——!!! 『カラマーゾフの兄弟』!!!!
おれは心の中で叫ぶ。
こいつら、わざとふざけてるんじゃあるまいか。いよいよおれは訂正するのもイヤになる。
”カン”&”ボン”コンビの茶々により、クロエはそれっきり黙ってしまう。
ちくしょう!! クロエは明らかに何かを言おうとしていた。一体『地下街の人びと』が何だというのだ? あれはお世辞にもメジャーとはいえない小説ではないのか? 文学に疎いならなおさらだ。彼女はなぜあの本に反応したのか。あらためて尋ねようかと迷っていたところ、ボンネが質問する。
「なぜトオルさんという方は急に大学を辞めてしまったんでしょうか?」
「……わかりません、理由は先輩達も知らなかったんです。ただ、トオルさんという人自体、どこか風来坊的な部分があったようで、急にそんなことをしても周りは特に驚かない。そんな感じではありました」
「なるほど。相手が音信不通になってしまったというのは少し僕の話に似てますね」
「ええ、私もそう思ってました」
「まあ、たけしさんの場合は本当になすすべなし、僕とは全く違いますね」
「いえ、音信不通はどうしようもない。私はボンネさんがそこまで悪だと思いません」
「ありがとうございます。すみません、話は変わるんですが、さっきの懺悔でたけしさんが話していたレモン。差し障りがなければそれの経緯も教えていただけませんか。個人的にとても興味があるんです」とボンネが言って「私も知りたいです」とクロエがノッて来たので、結局おれはレモンの逸話についても話した。
レモンの話は予想以上に好評で、みんなの笑いが起きたのは嬉しかった。
(9)に続く