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例えツッコミのメカニズム

例えツッコミの定義


ここでは、例えツッコミのメカニズムについて解説する。
いきなり抽象的な話になるが、初めに、結論を述べておきたい。
例えツッコミとは何か。
それは、相反する二項を、一つの共通項によって同居させることで、笑いを誘うテクニックである。

「生まれたての子鹿か!」


では、具体的な話に定着させていこう。
ここでは、有名な例えツッコミ「生まれたての子鹿か!」というフレーズに注目したい。
おそらく一度は聞いたことのあるフレーズだ。
バラエティ番組のローション相撲で、お笑い芸人が足を、情けなく、ガクガク震わせている様子を「生まれたての子鹿」に例える。
かなり聴き慣れたフレーズであるため、今やそのツッコミは笑えないかもしれないが、むしろ手垢のついたツッコミであるということを踏まえれば、「生まれたての子鹿か!」というフレーズ自体は面白かったわけで、笑いのメカニズムを考察する上では非常に重要なフレーズだ。
では、なぜこれは面白いのだろうか。
先ほどの定義に代入しながら説明しよう。
今回の場合は次のようになる。

共通項→「震える足」
相反する二つの項→「情けなさ」と「生命力」

我々が、ローションのヌメリに必死に耐えるお笑い芸人を見た時、そこからは、「情けなさ」を感じるだろう。
不安げな顔、今にも倒れそうな身体。
それだけでも、少し笑ってしまうのだが、さらに笑いを引き出そうとするのが、今回の主題、例えツッコミだ。
例えツッコミはそこに、「生まれたての子鹿」というフレーズを投げ込む。
大切なのは、「生まれたての子鹿」という語から引き出される意味作用だ。
そこから引き出されるのは、まさに、この世に生を授けられた鹿自身の「生命力」だ。
鹿の力強さ、大地を踏み締める足。
生命力溢れる様子は輝かしい。
しかし、これら二つのフレーズ、つまり、芸人の「情けなさ」と鹿の「生命力」は、本来的に相反する。
相反する性質が同じ項、「震える足」から連想されるようになるのは非常に気持ち悪い。
だが、私が重要だと考えるのは、まさにこの相反する性質、気持ち悪さそれ自体なのだ。
二つの意味を引き出しうる状態、両義性、自体が笑いを発生させるのだ。

トトロ見たことない


ここまでで、私の伝えたいこと、つまり例えツッコミによる笑いのメカニズム、両義性、についての理論は理解してもらえたと思う。
しかし、まだこれだけでは信用に足りえないだろう。
私の考えでは、こうした両義性による笑いというものは、例えツッコミの範疇におさまらない。
そこで、例えツッコミ以外の、笑いの例からも両義性について考えてみよう。
次に挙げる例は、かまいたちの漫才、「トトロ見たことない」だ。
そのネタでは、初めにツッコミ濱家がボケ山内に対して、「自慢できること」について問いかける。
それに対する山内の自慢が面白い。
彼の自慢は「人生で一度も『となりのトトロ』を見たことがない」というものだ。
もちろん濱家に「そんなもん自慢にならへんよ」と否定されるわけだが、しかし、彼の主張はこれでおさまらない。
彼は、「トトロは何回も繰り返し再放送されてきたにも関わらず見たことがない」と言ったり、「トトロは、1度観たらどうにもならない」など言ったりして、それを必死に自慢げに語る。
では、これはなぜ面白いのだろうか。
それは、その自慢が「アホくさい」にも関わらず、自慢が自慢たりうる理由を熱弁する、理論の「説得性」があるからだ。
先ほどと同じく、「アホくささ」と「説得性」は相反する性質、つまり両義性だ。
そして、この両義性が山内という1人の人間に同居している点が、笑いを誘うのだ。
したがって、笑いには両義性が含まれる。

緊張と緩和


また、これまで語られてきたお笑い理論のオーソドックス、「緊張と緩和」についても言及しておきたい。
私の解釈では、この理論は、笑いの受け手の心的な変化を時間軸に則って説明したものだと考えている。
緊張が高まって、頂点に達した瞬間、緩む。
そして私が注目したいのは、その曲線の頂点だ。
頂点には、緊張とも緩和とも言えない、両者の混じり合った感覚が、すなわち両義的な感覚が生まれる。
そして、その気持ち悪さこそが笑いを生み出すのだ。

おわりに


ここまで説明したことはかなり広範な笑い現象に見られるものだ。
少なからず例外もあるかもしれないが、この両義性に目を見張ることで、笑い研究の一助になれば幸いである。

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