生きる意味は歴史が決める、けど歴史は客観的とは限らない
「生きててよかったー!」ってつい考えてしまうことがある。例えば、お腹をすかせながらお寿司を食べたときなんかがそうだ。もちろん、感情が自分の語彙力を超えてしまっただけの過大表現である。
その直後、ふと考える。「生きてなかったらそう感じることもないな」と。いきなりなんだその落ち着きぶりはという感じだが、思考は止まらない。
では、生きることの意味は何か。
明らかに理論型の自分が、答えのない文系の問いに挑む。
まず、生きているかいないかという大前提は、「そもそも生きるということが正しいか」という根源的な問題に帰着する。けど、誰も何が正しいかは分からない。
事実が正しいかどうかは、歴史が決める。つまり、生きることについても、それが正しいのかどうか、その人や生き物が生きている意味、その行いの価値は歴史が決めるんだと思う。
「歴史が決める」というと客観的に事実を捉えているように見える。しかし、主観的にとらえることも出来る。
例えば、現在の私は学生として医学を勉強中である。勉強していると「これは何のために勉強してるんだろ」「本当に将来使うのかな」「全然覚えられない」なんてことがよくある。特に、実習前の、座学オンリーだった1~3年生の頃はひたすら知識を詰め込む頭でっかちでしかなかった。
そんなとき、私は「仮に今、私が10年後の自分で医師として働いていたら」と考える。学生時代を思い出す。「あの時は大変だったなー、けどそのおかげで今、患者さんを診るといろんな疾患を検討できるようになったよ。10年前の自分、頑張れー!」なんて過去の自分にメッセージを送る。
再び現在の自分に戻り、そのメッセージを受け取る。「ありがとう2032年のちゅーりん、2022年の自分も頑張るから」。すると、勉強が面白くなってくるのである。
この考え方は、私の根源的な思考回路に通じている。そもそも、時間が存在しないのである。もちろん、4次元は時間軸だと考えているし、ドラえもんのタイムマシンも早くできてほしいと心から願っている。けど、すべての事象(今ここでこれを書いている自分も、今東京で勉強している妹も、10年後の自分も、10年前の自分も)は並列しているのだ。時間軸は、あくまでそれらの違いのタグ付けであって、タイムマシンはその並行した事象の移動手段に過ぎない。そしてどこでもドアとタイムマシンがあれば、理論上はあらゆる事象にたどり着けると考えている。
映画などでは、1秒目はこの画像、2秒目はこの画像、というのが決まっている。そして同時に様々な作品があり、それが今の話で言う場所に当たる。映画では数字を入力すれば、その画像に一瞬でワープする。現実世界でも、つねに再生ボタンが押されているだけであって原理は全く同じなのだ。巻き戻したりするリモコンがタイムマシンである。
大脱線したが、要は歴史が決めると言っても、それは主観的に見ることも出来るといった話だ。医師として働く私が10年前のちゅーりんにメッセージを送るように。
それはつまり、今私が生きている意味は、過去や未来の自分、そして今の自分がつけられるということだ。今の私を起点にするなら、10年前に生きていた自分も10年後の自分の意味も、今意味づけることが出来る。生きている意味は主観的にも客観的にも見れるのである。コインの裏表のように。
未来ベースに考えるとき、それを考えているのは2022年の身体だから結局2022年ベースの主観的な見方の延長線上なのではないか、とも考えられるが、身体もあくまで容れ物に過ぎないのだ。でも、だからこそ今は今で謳歌したいし、出来るだけ生産的なこともしたいし、そこは人によって異なると思う。
※なぜここでは「意味づけ≒正しいか」としているか
評価手段という意味で。同義ではない。意味づけは無数の段階での判断方法、正しいかは2段階(Bool値:True or False)の判断方法。
最後に、一つだけ注意点を挙げておきたい。他の人の生きている意味はつけることができないということだ。
たしかに、一見客観的になら意味づけできるように見える。実際、影響を与えることはできる。
しかし、それと生きている意味・その人の価値は別物だ。なぜなら、他の人ベースに主観的になることはできないから。それはつまり、客観的に意味づけできないことの証明でもある。そもそも他の人に意味づけすること自体が自分の主観でもある。(他の時間軸に生きる自分は他人になるのではという考え方もできるが、その他人は自分にしかないアイデンティティ・考え方を持っているため主観的のベースにすることが出来る。そしてそれは同時に、その他人が自分であるということの証明でもある)
自分の中ではあらゆる事象に意味づけできる一方で、他の人には1ミリも意味づけできない。全くの別個人なのである。
だからこそ、人によって考えも異なるし、この問いから一般化した教訓を得ることも導き出すこともできない。
けど、自分にとっての「生きる意味」に気付くヒントになればと思う。
タイトルの画像:家族と出かけたときに撮影したもの