【後編】ボランティアと決別する。終焉へのレクイエム・新しいグランドデザイン?~定義から構築へ~
前回のまとめ
僕たちは前々回のエントリで、ボランティアの定義を「他者を想う気持ち」として議論を進めてきた。
この他者を想う気持ちが具現化したものがボランティアの行為となり発現する。この気持ちは他者を想う気持ちを出発点にしているため、同じ行動でも、自分の気持ちに左右されない労働とは相容れない考え方だと理解した。
前回のエントリではボランティア活動というのが「ボランティア」という曖昧な言葉によって意味が狭まれてしまっていると考え、そこから離れた方が良いのではないかという結論にいたり、ボランティアという言葉と決別した。
このエントリでは前々回、前回のエントリを踏まえてボランティアという言葉に代わるものを生成し、ボランティアの役割を考える。
このエントリの要旨
ここで、このエントリの要旨をまとめたい。
長い文章を読むには時間がない人もいると思う。なので結論から先に述べることとする。
以上だ。
いつものことながら、このエントリは中央大学ボランティアセンターの公式の見解でなないことを記しておく。
言葉の生成
ある先輩からの前回のエントリを見てのコメント
「痛みが伴うイノベーション」このような思考を持っている人を日本の中にも増やさないと、と教授が講義中によく言っていた。だが、それに対して、自分にはまだ疑問が残っている。一つの形式や定義または何かから逃げ出して、そしてそれを壊して、次の何か新しいものへ進むのは、本当にその次のものがよりいいものになることをさしているのか。その何かというのがただの形式で、本質の行動が変われば、形式の表記も自然に変わるのではないか。要するに定義や言葉を変える前に、まず行動を変えるだけで、言葉やイメージに伴う痛みも少なくなるのではないか?
最近、AIの話をyoutubeやテレビで見るようになった。AIによって作業効率が上がり、今まで3時間かかっていたものが1時間、もしくはもっと早く出来るようになったと言っていた。僕自身もAIは結構活用している、デザイン生成の際のDalle , Canva AI ,や文章作成の時にはChat GPT , Notion AI,最近では音楽生成のAIにも触れようとしている。
だが、AIはソフト(仮想)の世界のものだ。ハード(現実)の世界ではまだ力を持てていない。たしかにAIは現実世界の人を助けている。でもそれはネットありきでの話だ。ネットから遮断された世界線においては特になんの意味も持たないし、人の生活を変えられていない。ただ世の中は大慌てだ。もしかしたら自分の仕事がなくなるのかもしれないという不安や、全てAIに任せてしまえばよいという人もいる。考え方としては理解できるが、どうしても腑に落ちないことがあった。
それはいつも自分がしているボランティアだ。肉体的な動きだ。
つまりフィジカルなこと。
例えばここに大小問わずの石が落ちているとする。その石を拾いたいと思う。ただ一人で持ち上げるのには限度があるのでまずは自分が持ち上げられそうな石を選んで、他の石は人を呼んできて運ぼうと思う。
こんな簡単なことがAIにはできない。いやロボットならできるではないか、
ロボットはあくまで人がプログラムした中で動く、自分で判断して動くわけではない。
今の自動運転などのプログラムは「判断をするための判断をする」という条件を追加し、それに付随する膨大なデータを読み込ませているに過ぎない。
つまり厳密にいえばそれは自分が判断している訳ではないのだ。
その意味でこの簡単に思える複雑な行為は人間にしかできない。AIに取って代わられないもの。その1丁目1番地は「ボランティア」なのだ。
新しい言葉(ボラ×コミ)ボランティティ精神の中で
前回のエントリでボランティアという言葉から決別をしようとした。ここでは僕が考えた新しい言葉を紹介する。
それは「ボランティティ」だ。
これからはボランティアという意味をボランティティという言葉に置き換えて表現する。
「ボランティア」という言葉はラテン語に起因するもので元々はボランダスという。ボランダスというのは志願兵という意味も含意している。
つまり現在のような社会活動をするという意味は最初にはなかった。後付け的なものなのだ。
ただ今の市民活動・社会活動は文字通り「社会」の中で醸造された行為だ。これは英語だと「コミュニティ」だと記述できる。
僕のなかでこのコミュニティとボランティアという言葉を掛け合わせるのが良いのではないかと考えた。
通称ボラコミである。
ここから派生して「ボランティティ」という言葉を思いついた。
英語表記は「Voluntity」である。
全てのボランティア活動はコミュニティ活動であるとも思っている。社会の中での活動なのだから、簡単に言えばコミュニティ活動の中に存在するものなのだ。
実益と心益
前回のエントリではとても定性的に記述してしまったが、ボランティティは2つに分けることできる。それは実益と心益だ。(心益という言葉は辞書にはない。作ったものだ)
まずは実益の面から考えていきたい。
ここでいう実益とは目に見える行為だ。例えば被災地支援などがこれに当たると思っている。現地に行って食料品を配ったり、現地の人たちが具体的に困っていることを親身なり解決しようとする。話し合いというよりもむしろ行動していくタイプだ。これが一番ボランティティの精神の中でボランティアの部分を表していると思うし、わかりやすいボランティアの形だ。前述の通り、これも全て「他者を想う気持ち」に起因していると考えている。
次に心益だ。
心益とは目に見えない行為だ。例えば何かしらのワークショップや僕が行っているスマホ講習会などはこれに当たる。この行為はどちらかというと話を聞いたり議論することがメインだ。もちろん行動もするのだが、実益というよりは相手の心に寄り添うものだと思っている。議論したり、人の話を聞いたり、それ自体に価値が存在するものなのだ。ボランティティ精神の中ではコミュニティの側面が強く表れている行為であって、僕はこの心益をボランティア(実益)に含めて議論していたのが、ずっと腑に落ちなかったポイントであった。
つまりボランティティとはボランティアとコミュニティの両輪を軸にして行ってきた行為であると結論付ける。
決してこれは衒学的な言いようをしたいのではなく、あくまで自分の中での落とし前という感じだ。
心の雨
どうしてこんなにもボランティティの考え方にこだわるのか自分の中でもよくわからなかった。以前スマホ講習をしていた時、いつもの常連の方から僕の前回のエントリに対して「なんか読んだけど、小難しくてよくわからなかったわ。ボランティアはボランティアなのよ。」という言葉を頂戴した。
たしかにそうだ。ボランティアはボランティアだ。
ただ自分がハーフであるからか、今まで自分のアイデンティティがどこに帰属しているかわからず、色々な言葉に出会ってきた。もちろん良い言葉もあれば悪い言葉もある。
「自分の顔がこうじゃなかったら、名前がカタカナじゃなかったら違う結果になったのかな」そんなことを考えた時もあった。
僕が言葉にこだわるのは自分のアイデンティティを言葉に出来なかったからなのかもしれないと思う。
ボランティアという言葉がボランティアのイメージを狭めてしまっていると考えてボランティアという言葉から決別しようと考えた。
でも僕の持っている違和感は自分と社会とが定義するボランティア活動の差異性だった。
これは半ば自分を認めてくれない社会に対する憎悪や憎しみから現れた一種の怒りであるような気がする。(認めてくれないは言い過ぎのような気もするが)
ボランティアを自らの都合よく解釈し、ほかのニュースや報道と並列に置き、ボランティアに対してのイメージを過度に歪曲したものにしてしまったことに怒っていた。
社会活動の中でボランティア(ボランティティ)がどんな意味を持ち、誰に何を与え、なぜするのか?
ほかの活動が沢山とある中で、なぜ淘汰されずに脈々と人類の中で受け継がれているのか。その広大さと雄大さを議論せず、見ようともせず、一概にボランティア活動だと括り、考えることを放棄したことに対して僕は怒っていた。
共に歩く
経済学の言葉の中に「神の見えざる手」という言葉がある。
それは近代経済学の父とも称されるアダム・スミスという人物が自らの著書である『国富論』の中で
「市場経済において、各個人が自己の利益を追及すれば、結果として社会全体において適切な資源配分が達成される」
という考え方を指す。
つまり各個人が自身の利益を追及することは、一見、社会に対して何の利益ももたらさないように見えるが、あたかもそれが「神の手」に導かれるように、社会全体の利益となっているという意味だ。
ボランティティとは人の自然な行為であって、どこにでも存在するものだ。誰かが誰かのために何かしらの行為をしている。自分の他者を想う気持ち、そしてそれを後押しするような「神の見えざる意思」がそこにはあるような気がする。そしてその行為は社会を構成する全ての人が享受し育むことができる。
あなたがボランティアをやろうとしたその意思は何にも代えることのできない尊いものだ。
あなたの優しさは誰かの苦しさを消すはずなんだ。
結果や結論を導くことは悪い事ではない。
でも他者を想い、神に後押しされ、お互いに支え合い、手を取り合い、共に歩くことは、社会に生きる私たち自身への賛美なのだと思う。
雨が降った後は必ず虹が見える。
僕はそんなボランティアに出会えたこと、そしてその中で出会えたすべての人に感謝してこの文章を終えたい。
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最後までお読みくださりありがとうございました。
学生スタッフの記事はこれからも続きますのでぜひご覧ください。
中央大学ボランティアセンター
学生スタッフ 代表 たは