ボランティア活動ってなんなん?ー労働とボランティア活動の瀬戸際、根幹の考え方。
この文章を書こうと思った動機
1年生の4月に中央大学ボランティアセンター学生スタッフに就任してから、ボランティア漬けの毎日になった。自分でもびっくりするくらい、毎日毎日、ボランティアという言葉を発している。
現在2年生になり、9月から学生スタッフの代表になった。自分でも代表という認識はまったくないが、外部の方が来た時、「学生スタッフ代表のカワジャです。」と言うたびに意識せざるを得ない自分がいる。
ただここまで自分の時間を投下していると(基本的に僕はボランティアセンターにいる。授業時間外は基本いる。もちろんこれは自分がそうしたいからそうしているので良いのだが、)なぜボランティア活動が必要なのか、なんのためにあるのか、そういうある種の「ボランティアの概念」みたいなものを考えてしまう。
人間どんなことであっても自分の時間を費やしていくと、どこかしらにプライドやそれに対する意地みたいなものが発生する。
例えば、居酒屋バイトをしている人が配膳のベストタイミングを考えてしまったり、先生が生徒に対して管理するようになったり、(例えとして適切かはわからない)
僕はそのプライドや意地みたいなものが「ボランティアの考え方」にあった。
様々なボランティア活動している方々と話してきたが、皆、自分がやっている行為そのものを客観視しているような感じではなく、活動に対してきちんと取りくんでいる方々が多かった。(客観視というのはする必要がないからしていないだけかもしれない)またボランティアの概念みたいなものを自分の言葉で言語化できて、説明できる人とも、出会ったことがない。(あくまで僕の主観的であることを追記しておく)
なので今回はボランティア活動・運営・企画に約2年携わってきた自分が自分の言葉でボランティアという無定義語を考えてみたいと思う。
目標はこれを読んでくれた皆さんに僕が思っているモヤモヤを共有することだ。(笑)
予め宣言しておくがツッコミどころは満載だし、論理的な飛躍もあると思う。ただ現場の生の声だと思って承知していただきたい。
では参る。
友達からの言葉
一概にボランティア活動といっても、多種多様である。
ただ唯一言えることは、そのボランティア活動を支えている運営は大変だということだ。それは中大ボラセンに所属してからつくづく感じる。
ある日、授業が一緒の友達に「ボランティア行ってくるわ、(ボランティアセンターに行くことを指す)」と言った時、
たはは相当ボランティアに時間が取られてるね、(この友達は僕がボランティアの企画などを作って土日もボランティア活動をしていることを知っている)
「いやでも好きでやってるからさ」
「うん、好きじゃなかったらそれただの労働じゃない?」
僕「労働…か」
妙にこの言葉が頭に残った。
好きじゃなかったら労働なのか。でも好きだから労働にはなっていないのか、仮にボランティア活動が好きじゃないとしてボランティア活動は本当に労働なのか?
言われてみると、確かにその通りかもしれない、と思ってしまった。
仮に企画をゼロから作るとなると
①メンバー集め
②企画立案
③企画の紹介、ほかのメンバーからの意見
④立案企画のブラッシュアップ
⑤他のメンバーからの最終意見
⑥委員会へ打診
⑦企画実行
⑧反省
⑨改善点フィードバック
ほかetc....
この作業を通常2ヶ月から3ヶ月程度で行わなくてはならない。
もちろん学生である以上、日々の授業(特に1年生、2年生は必修科目などの関係で授業が多い)やアルバイトもある、集まれる日は限られている。
体調を誰かが崩したらその分は別の誰かに降りかかる。
他者の存在
ただ僕の中では、労働とボランティアは明確に分かれている概念だ。
その分かれているという説明が友達に「労働じゃない?」と言われた時に出来なかった。なのでこのエントリはその反論でもある。
ボランティア活動と金銭を必要とする労働活動では明確に異なる。僕がそう思う点は他者の存在を定義する概念の違いだ。
これは「他者の存在性」と言ったほうが良いかもしれない。
私たちはどこまで思考を拡大しても他者とは切り離せない存在だ。この世の中に一人で生きているという人はいないだろう。
私たちは生きている以上は誰かのやっかいになる。
今、僕が身につけている服も、食べているものも、そして生活している住居も僕の知らない誰かが作り、この世に存在している。
でもよく考えてみよう。
服を身につけること、食べ物を食べること、住まいをもつこと、これらにはすべてある共通項が存在する。それはどれも「お金が必要」ということだ。
つまり他者からのサービスを受けるにはお金が必要なのだ。これは労働者側の欲求とは別の次元で行われることであり、自分の意見や気持ちは媒介しない。
このサービスという考え方は万能でどこでも当てはめることが可能だ。
そして、そのサービスを根幹に置き社会を回す事を「資本主義」と呼ぶ。
なるほど、資本主義という仕組みは相手の気持ちに関わらず人を動かす力を得た。
それを労働(英語ではLabor,Forcementと表現する)と呼び、その対価にお金を支払うという概念を構築した。
ではこの他者の存在をサービスとして捉え利用する資本主義とボランティア活動は何が異なるのか。
まずボランティア活動はこの資本主義の外側に位置する概念だと僕は考えている。
ボランティアにおける他者と資本主義の他者
どういう意味か。
ボランティア活動をする際も同様、他者の存在が必要だ。しかしボランティア活動においては資本主義的な他者を認めない。
これはボランティア活動では自分が当事者になり自分から進んで行動を起こすからだ。
ここに明確な労働との違いを発見できる。
ボランティア活動は活動を行う当事者側が自ら進んで活動を起こすのだ。
この自発性は金銭に触発されて湧き上がる思いとは異なり、他者の存在を想う気持ち(ボランティア行う対象への想い)から発起する。
つまり気持ちの源は他者への想いなのだ。
これは他者がいるから生活できるという視点を金銭が媒介しない文脈で支えている重要な考え方だ。
もっと簡単に言えば他者がいるから生活できると思うその根源は、自分の他者を想う気持ちがそう思わせてくれてるということなのだ。
他者の存在を大事だと思えるのは、自分が他者を想う気持ちがあるからこそだ。
つまり「他者の存在」とは他者を想う僕たちが作り出した概念として捉えることができる。
そしてこの気持ちを実際の行動にしたものが「ボランティア活動」なのだ。
私たちの気持ちを活動として表現し、気持ちを支える支柱の役割を担っているのがボランティアだ。
これが、資本主義社会が作りだす「労働」と僕たちの気持ちが作り出した「ボランティア活動」は明確に異なり、僕が資本主義社会の外側に存在すると思う理由だ。
この文章を読み、多くの人は「この人、いったい何を言っているんだろう」というものだと思う、しかし定義が曖昧になりがちのボランティア活動というものをきちんと言語化(定義の標準を定めていく行為・過程)していくことは無駄なことではない気がしている。
あくまで持論であるが、本当に大切なこととは、地味で単調で、誰しもが見過ごしてしまうような部分に存在しているのではないかと思う。
人々の目は派手で楽しいことに集まりがちだ。しかしその中でも自分の信念を曲げず、めげずに地味なこと、単調なことを繰り返せる人が本当にすごい人なのではないかと思ってしまうのだ。
以上が僕の友達への反論である。
と長々と説明してみたものの、やっぱり好きだから活動しているのだ。
理屈は後から考えたものにすぎない。
これを読んでいる皆さんにはぜひ自分なりのボランティア論を構築して頂いて、いつか会ったときに議論できたら素敵だナと思う。
学園祭が終了して間もなく、コロナに罹った代表より。
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最後までお読みくださりありがとうございました。
学生スタッフの記事はこれからも続きますのでぜひご覧ください。
中央大学ボランティアセンター
学生スタッフ 代表 たは