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たいしたことない日々のこと200920

ちょうど昨日、巡礼者を街で見かけた。家の前の通りで、まっすぐと前を見つめ重たいリュックを掲げながら歩く男性。そこは巡礼路のルートから外れているからたぶんそのひとは何か必要にかられてこの道を通ったのだろう。初老の男性、背負ったリュックの汚れ具合、上部に飾られた帆立貝、靴の姿からみてここから新しく歩き始めたひとではない。パリでそういう姿をみるなら、彼はいったいどこから歩き初めているのだろう?

彼から後ろ5メートルくらいにいたわたしは、さすがに、走り、肩を叩いて声をかけて、「あなたは巡礼者ですか?」と言うほどの勇気を持ち合わせてはいなかった。ただ後ろから、ああ、話しかけたいという惜しさを抱えながら、彼のリュックに掲げられた貝殻を眺めていた。そうすると彼は、ホテルの看板を眺め、表示された宿泊料金を自分の予算と相談して、ここはだめだというふうに振り払ってまた歩き始める。

どこに行くのだろう。パリのど真ん中の格安のホテルだなんてわたしも知らない。だけれど話を聞きたい。私がここに住む富豪だったら...。彼を家に招待して巡礼の話を聞くこともできただろう。さすがに一人暮らしで、そういう人を案内できる家には住んでいない。彼の無事と、目的地まで安全にたどり着くことを祈ってわたしは彼に、心のなかで「ブエンカミーノ(良い道を)」とつぶやいた。

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巡礼のことを、フランスにきてからずっと考えている。Opéra地区にも巡礼のシンボルを見つけたこと、歩いて15分程度の距離の場所にSaint-Jacquesサンジャックの塔があること、それらが私を無関心にさせないでいる。大好きな17区のレヴィ通りを歩けば、そこにはサンティアゴデコンポステラを指し示す黄色い矢印がはっきりと地面に書かれているし、そもそもフランス人の道を歩いたのは3年前の今の時期だ。

自分に信仰心はないけれど、巡礼をしてからというもの、何か見えない運命のようなものに操られているのではないかという気持ちが高まっている。抗えない流れがあり、そこに寄り添うことでしか生きていけないのでは、というような感覚は、歩いてからより一層強くなった。

どうしてパリまできて、考えるのだろう。巡礼は今早急に必要なことではないし、すぐに歩くほどの準備もできていない。それでも道の存在が毎日ずっと頭のなかに浮かんでいる。それはまさしく、道がわたしを呼んでいることにほかならない。

「はやく歩き始めなさい」ということか。あるいは「道のひとたちとまた手を組んで生きていきなさい」ということか。いまいちよくわからないけれど、わたしは一生かけてこの道で出会った奇跡とともに生きていく必要があるということだけは、わかっている唯一の事実でもあるのだろう。

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