たいしたことない日々のこと0628
どうでもいい記録の日記、たいしたことない日々のこと。
あまり発する意味や意義を感じない言葉、思考、生産物のなりそこない、それでも見られることを意識しながら書くこと、あるいは時間の変容でどれくらい考え方が変わっているのか知りたくて不定期にnoteでの日記は残しておこう、と思い更新する。あまり読み返しはしないからほぼ一発書きで。
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先週のわたしから今週のわたしへ繋ぐメッセージ。日曜日に更新するのも1週間の出来事を統括するわけで、なかなか悪くない。過去を振り返る行為にある種一定の法則やルールが見いだせるかもしれない。ほんとうはこういう日記ではない形で表現したいけれど、それはそれで別途やっていこう。
先週は大きな動きが金曜日にあった。とはいっても週末はだいたい企業や機関が休んでいて、本格的な稼働は今週月曜日。さっそく書類を集めてあちこち(とはいっても都内)に移動して、必要な紙を集める。フランスの教育機関からは無事に返信をもらい(とはいっても受取確認メール)1万キロ向こうの居場所に橋はかけられることができたかなといった状況。7月上旬のバカンスに入る前にどれだけ状況を前に進められるか(とはいっても自分が関与できない)わからないけれど、とりあえずは前向きにいようという気持ち。
いまの仕事は続けながらも契約条件が変わる。友人に話して「退職してもそうやって続けられるのは、人柄だよ」と褒めてもらえて、嬉しかった。そうだなあ、最初に務めた職場を除いてその後に退職した会社とは縁が続いていて、たまに仕事をいただいたりする。心底ありがたいと思う。思い返せばだいたいの職場で応援や祝福されて退職している。なぜこんなに前向きに辞められるのだろう、正直言えば強がっているだけで、次にどんな仕事ができるのか考えれば不安しかない。いまは仏で仕事を探すなんて豪語しているものの、仏社会はコロナ禍で仕事を失う人も増えて失業率も高くなっている。近年は7%前後だったなと記憶しているが労働大臣によると10%を超える見込み。日本は3%弱でそれも本当なのかな、といったところ。
人口や年齢、詳細データを把握しない限り正確なことはいえない。ただ感覚値として難しい状況であることは間違いないから覚悟はしておいたほうがいい。楽観主義的に乗り越えられないことがあると知っておくこと。
大きな海に飛び込む前の、過酷な現状。どこかで似たような経験がある。就活時代だ。前回の日記も就活の話をしていたから一体どれだけ恨みが深いのだろうか。2010年3月卒のわたしの時代はリーマンショックの影響を受け有効求人倍率が下がった時期で、それでも就職氷河期の世代よりはひどくはないけれど、リクルートのサイトにあるグラフで大きく落ち込んだ棒線を見るとなかなかのインパクトがある。
社会人経験を積み上げていまこのように客観的に見れるわけだから、生き続けることの大切さはそこに尽きる。困難に直面しても長い目でみたときに、距離をもって「あのときはこうだった」と冷静に受け止められるものだね。時間はすごい。自分の意思とは関係なく進み続けてくれる。
Errare humanum est. 間違えることは、人間の証である。
6/27に開催されたオンライン日仏対話<批判すること 解放すること>で登壇者・Marion Genaivre氏が引用していたラテン語の一文。
批判精神をどのように体得していくかといった質問に対し「方法論はない。ただ問うこと、根拠を述べること、論証することで学んでいく。そのなかで失敗を恐れるな。間違えることは人間の証であるのだから。」と上記の言葉を引用しながら語っていた。彼女はこうも続ける。「あやまりは判断することの代償である。どんどん間違えなければならない、間違えて真理に向かうのだ」。
この言葉にはひれ伏すような気持ちになった。間違いを過度に恐れる感覚には身に覚えがありすぎる。しかしなぜその恐怖感におびやかされないといけないのか。支配されるべき感覚は真理への追求ではないのだろうか。
こういうことを書き出すと止まらない。もっと荒々しい感情ではなく冷静で客観的な事例をもとに整理したい。本質的な問いを探りたい。哲学したい。社会学的に考察したい。でもそれだけでご飯は食べていけないから同時並行で現実的な道、具体的な方法を考えたい。
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