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オーパス・ワン2012 ~by the glass
幕間の十分間。
「五分だけ時間を下さい。気合入れ直して来ます」
ルリはそう言った。額の汗を拭う私。私は全くルリの顔を見ていなかった。鏡張りの楽屋で、色とりどりの生花が噎せ返る様な香りを放っていた。その間にひっそりと置かれたワインボトルが目に付いた。
ボトルネックに青いリボン、誰かが公演祝いに持ってきてくれたのだろう。私はルリの背中とボトルを同じ視界に入れていた。
〔オーパス・ワン2012〕―誰もが知るカリフォルニアの銘醸ワインだ。確かに華やかな舞台には相応しいだろう。
ややあってドアの閉まる音がした。私はやっと孤独を取り戻した。
ルリとは師弟の間柄だ。初めて取った直弟子だ。だが、その間柄をあっさりと越えてしまったのは、私の迂闊だった。
タンゴ・アルゼンティーノを踊る上で、ペアはお互いが精神的にも密着していなければ息の合ったステップは踏めない。
昔から言われてきた、体のいい言い訳にも似た先人の言葉が頭を舞う。その理論に則って、私は一体幾つの恋をして、幾人の女と夜を紡いできたのだろう。女房は愛想つかして、半年ばかり海外に行ったまま戻って来ない。
この舞台は、私が独立して十周年の記念公演。今回を機に、私は活動を後進の育成に移して行こうと考えていた。まだ引退するつもりはないのだが。
五分経っても、ルリは戻って来ない。私は〔オーパス・ワン〕のいかり肩のボトルの線を追った。ひょっとしたら、もう二度と戻って来ないかもしれない。
「センターであんな無様を晒すなんて!バカヤロウ」
些か怒鳴り過ぎたかもしれない。手も上げてしまった。石崎が止めに入らなければ、私はルリの顔までぶっていただろう。ダンサーの顔を殴ろうだなんて、我ながら酷い男だ。
ピン・スポットが当たった時、ルリは転んだ。震える笑顔で立ち上がるルリを見据えた私の顔は、鬼の様だっただろう。大馬鹿者。誰がお前をここまで育てたと思っているんだ。
「あなた以外の人と踊るなんて、自信ない」
三か月前、ルリはレッスンが終わった後にぽつりと言った。私は何も答えなかった。師匠であり、ダンス教室の主催者である私の指示は絶対だ。
「石崎さんは上手いけど、違うの。私はあなたのダンスにずっと憧れていたの。ずっと憧れて、やっとあなたに認めて貰えて」
「パートナーとはより精神的に近寄らないと、タンゴは踊れない」
「私に石崎さんを好きになれ、と言うのね」
ルリの暗い瞳をはっきりと覚えている。
照明が変わった。私は緞帳の傍らに立っていた。ダンサー達が舞台に花の様に散らばる。バンドネオンの演奏が胸を突くように始まった。
ルリは照明で輝くラメ入りの深紅のドレスを纏い、舞台の中央に立った。ピン・スポットが丸くそのしなやかな身体を包んだ。ルリの真っ直ぐな腕が伸びるのを、私は見た。きりりと引き結んだ唇。楽屋で言った言葉は、誤魔化しでも彼女自身への慰めでもなかったのだ。
スリットから伸びた脚に赤い花が散った。
薔薇の花びらを降らせるなって、演出予定には無かった筈。私は瞠目した。ルリの右手指の間に光る、鈍い輝きが弧を描くたび、赤い花弁は散る。
ルリは微笑んでいる。ドレスの赤よりも鮮明な赤い滴を迸らせながら。まるで赤い葡萄酒の滴り。
観客席から悲鳴が上がった。ダンサー達も狼狽える。私一人が喝采を送った。ルリは凄絶なタンゴのソロを踊っている。
無意識に、私は舞台の中央に向かって歩き出した。私は、ルリの熱演に応えてやらねばならない。
〔オーパス・ワン〕は「作品第一号」という意味だ。ルリは私の「作品第一号」。彼女が血の花を散らし切るまで、パートナーをつとめられるのは、やはりこの私だけなのだろう。
FIN