街を動くことは、未来のひとつを捨てること
次に桜が咲く頃も私はこの場所にいると、信じ切っていた。
引っ越したのは日本でも有数の桜の名所で、春になるとわざわざ電車に乗ってその場所にたくさんの人が募った。
私はわりと、眉毛も描かずに買い物に行ったりパジャマ同然で散歩に行ったりする生活を送っていたのだけれど、ある在宅勤務の日、気分転換がてら桜を見に外に出たらわんさか人がいて、その日以降、寝間着から着替えずに外出するのをやめた。家から歩いて1分のド近所に外から人がやってくる街は、なんだかソワソワしてあまり好きになれなかった。
けれども、住んで1年も経てば、その街が好きになっていった。家からどの方向に散歩をしても新しくて可愛いお店を見つけるし、緑は思っていたより多いし、どこへ行くにも便利だし。ちょっとした外出にほんの少し気を遣わないといけない生活は、もしかしたら出先で芸能人に遭遇するかもしれないという発想転換をすれば、ミーハーの私にとって大した苦ではなくなった。
そうしてせっかく好きになった街を、唐突に出ていくことになった。唐突に、と言っても、きっちり準備をして出ていくわけだけれど。あまり好きじゃない街を出ていくのと、やっと好きになった街を出ていくのでは、そのわけが違う。
好きになった街には、好きになった場所がたくさんある。
こっそり美味しいパン屋さんも、忘れられない美しさの美術館も、通いやすい区民プールも、駅前の商業施設も。坂道を登れば憧れの街に着くのも、幼稚園児の声が日常で聞こえてくるのも、好きな本が入荷しているかいないか毎度きわどい本屋さんも。
何よりも、散歩が楽しい街だった。桜が咲いている時期はもちろん楽しい。けれども桜が咲いていない時期でも、春のように心地よい青空の下、またこの場所が桜に埋め尽くされることと想像するだけで、心が躍った。
桜の並木道沿いに、ゴミ処理施設が建っていた。
その施設は、引っ越してきて1年と少し経った、夏が始まる季節にリニューアル工事が開始された。工事の壁にはでかでかと、「2023年春完成」と書いてあって、その文字の背景には満開の桜と施設が融合したイラストが入っていた。
あと1年弱で完成か。と思ったときに、私はその完成を当たり前に見るものだとそう思っていた。次に桜が咲く時期にも私は変わらずこの街で過ごしていると、その夏には疑いもしなかった。
いくら初めは好きじゃなかった街だと言っても、そういう、当たり前に信じていたものを失うことは純粋に寂しい。生活の積み重ねの結果で街を好きになるのだから、これから続く生活だって今と同じくらいに大切だ。大切で、当たり前で、突然なくなったりしてほしくないものだ。
そういうことを失ったことには、なかなか気がつかない。ごみ処理施設の完成以外にも、きっとあの街で見るはずだったものを私はいくつも失っている。
いくら引っ越した先の暮らしが好きでも、それは事実として残り続ける。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?