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「羨ましい」と口にするなら、まだ自分はそこで頑張れる

事あるごとに「関西に帰りたい」と言っていた先輩は、今年の春、本当に関西に帰った。

同じ関西出身の私にも、「帰りたい」と思う気持ちは心のどこかにある。東京に染まりきれないもやもやを感じたときや、距離が離れてしまった友人を想うときには、「大阪もどりたいなあ」という気が過る。
ただ、東京に出て長い月日の経っていない私は、まだ東京の知らない街で遊びたい気持ちやおいしいものを食べたい気持ち、もっと仕事がうまくいく期待やいつか芸能人に会えるかもしれないなんていう妄想を日々抱くことで、東京で生活することを続けている。本当に戻りたいとは、まだ思っていない。

私よりも一足先に生きてきて、私よりも長く東京で過ごした先輩は、私が感じていたのと同じ気持ちではなくなったのだろうなと、そう思う。
京都に転職先が決まったと聞いたときは、自分自身にも訪れるかもしれない未来を感じて、心許なくなった。


そして関西に帰って数か月、事あるごとに「関西に帰りたい」と言っていた先輩は、事あるごとに「東京が羨ましい」と言ってくるようになった。

営業先で起こった何気ない話を聞いてもらっている時には「俺も東京の会社回りしたい」と言ってきたり、免許更新に来ていることを伝えた時には「俺も東京で免許更新したい」とか「東京の地名のナンバープレートが付いた車に乗りたい」とか言ってきた。

あんなに関西に焦がれていた先輩は、いったいどこに行ったのだろうか。そんなに東京が好きなんだったら、会社を辞めずに今だって一緒に仕事ができたのではないだろうか。
そんなふうに思ってしまうことだってあるくらい。

けれど、私は知っている。関西だって東京に負けないとっても良いところだということを。
先輩が無邪気に「東京が羨ましい」と言えるのは、いま京都で過ごしている生活自体にもある程度満足しているからだと思う。

もし今の仕事が全くうまくいっていなかったら、東京にいる私に、辞める前の会社で今も働いている私に対して、そんなに堂々と「羨ましい」とは言えないのではないだろうか。本当に本当に羨ましい時ほど、言葉に出すのを憚ってしまう。言葉にしてしまうことで、自分がした選択が間違いだったと気づかされるかもしれないから。
こんなふうに思うのは、私だけだろうか。

先輩から「東京が羨ましい」という言葉が出るたびに、私は少しだけ安心してしまう。今の場所でそう思える余裕があるんだろうな、きっと充実しているんだろうなと、そう思えるから。

羨ましいという感情は、強くなりすぎると自分自身をきつく縛ってしまうけど、少し抱くぶんには心地いいと思いたい。
人を羨ましく思う。その気持ちを素直に伝えられる。それだけの余裕があれば、まだここで頑張れる。
「羨ましい」の気持ちに私は、そんな解釈をしたい。

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