自分の芝の青さを知らない
いつでも、無い物ねだりをしている。
暑い夏には、涼しい場所を求めて、冷たいかき氷や麺を求めて。寒い冬には、温かいこたつを求めて、熱い鍋やシチューを求めて。
それだけ風物詩を楽しんでいるのに、早く秋になれ、早く春になれ、と、比較的生きやすい世界を求めてそうつぶやく。
昔から暇が嫌いで、いつも何かをして遊んでいた。
小さな頃、家で一人きりの時にはリビングで一人、本で壁を作り、本屋さんを作って、お客さんと店員さんの一人二役をして遊んでいた。
部活動の無い平日は、何も用事はないのに放課後も学校に残って、先生の手伝いをしたり友人とくだらない話をしたりしていた。
大学生の時は、授業とサークルと遊ぶ予定以外の隙間の時間はとりあえずアルバイトのシフトをいれて、家にはお風呂と寝に帰るだけだった。授業とサークルとアルバイトと友人たちとの交際の行き来で、とにかく忙しかった。楽しかったが、常に私は「暇になりたい」と思っていた。暇を求めたことなんてただの一度もなかったのに、予定を詰め過ぎると私は自分自身に掌を返した。
社会人になり、一人暮らしを始めた。
土日の休みの日は、待ち構えたように暇をした。誰に伝わるのか分からないが、暇を持て余すことがとても楽しかった。アラームをかけずに寝て起きて、起きてもベッドからはまだ出ずにテレビとYouTubeを同時に観て、お腹が空いたら起きて、ちょっと髪を整えて散歩に出て、家の近くのパン屋でパンを買う。だらだらする時間が長くてパン屋に行くのが遅れると、彩りのあるパンはすべて売り切れていて、食事パンしか残っていない。そんな日はそもそも買わないか、家に帰って2時間くらいかけてクリームシチューとかを作ってパンと一緒に食べるかのどちらか。時間はたっぷりあるので急にそんなこともできる。暇って楽しい。
数か月は、そんな暇が楽しかった。暇を待っていたし睡眠不足が解消されたことも嬉しかった。けれどもだんだん、休日も忙しく仕事をしたり、友人や恋人と色んな所に出かけたりしている知り合いのSNSを見ているうちに、私は何か不足しているような気分になった。もやもやした心の中で感じたのは、「忙しくしたい」ということだった。なんかもう暇やだな、とか思ってしまったのだ、あんなに求めていた暇を手に入れた日から、たったの2~3か月で。
結局私はどう生きても、何をしていても、別の何かを求めてしまう。別の誰かを羨んでしまう。隣の芝がずっと青い。他人ばっかり見ているせいかもう何年も、自分の芝の色も知らない。今の自分は、何色の芝を持っているのだろう。
今持っていない何かを求めすぎている私は、今の私自身のことを何も知らないでいるのかもしれない。
写真は初めて行った石神井公園