読んでもらえずに返ってきた本
友人に借りたまま、何か月も、何年も返せていない本がいくつかある。
決していいことではない。それは分かっている。
けれど、返せない。
貸し主は、私にとって精神的にも物理的にも、返そうと思えばいつでも返せる距離感にいる人たちばかり。
きっと、だからこそ返せないのだと思う。いつでも会えるから、今度でいいや。と。
買った本もそうだ。
本に対して気持ちが盛り上がるのは、好きな文章に出会ったときと、ついにやけてしまうほどの読後感を味わったときと、買うか買わないか迷った末、買うことにしたときだ。
あんなに迷って、読みたくて読みたくてお金を出したはずなのに、いざ家に帰ると、袋から取り出していったん本棚に寝かせてしまう。手に入った瞬間にいつでも読める安心感で焦りが無くなる。まるで恋愛だ。
だけど、必ず読もう、という気持ちはある。せっかく貸してくれたのだから。私にふさわしいと選んでくれた本なのだから。読みたくない理由なんて一つもない。じゃあ読めよ。だけど、読めない。本棚で寝かせすぎてもう発酵しきってしまっている。
ただ、相手にとっては大事な本である可能性も高い。貸したいと思うほどのおすすめなのだから。
私だって実際、好きな作家さんのいちばん好きな小説が手元にない。かれこれ1年以上、友人の家にある。家にあるはず、といったところだけど。
早く返してほしいなと思っていた。けれどこの間、別の友人から3年ぶりくらいに本が帰ってきた。結局読んでいないそうだった。
その子とは物理的な距離が開いてしまったせいで、頻繁には会えなくなっていた。だから本を返してもらったあの日もちょうど1年ぶりに会った日だった。彼女の家にお邪魔して、そのまま彼女から本を手渡された。
「ごめんね。滅多に会えないし、借りたままは申し訳ないから」
と。
今さら返されるとそれは、「もう読まないよ」と言葉にしているのと同じだ。
素敵な話で彼女に読んでほしかったから、少し寂しかった。読んでほしかったから、食い下がってしまった。
「でももうすぐ映画化するし、私も貸してることすら忘れてたし、あれだったらもう少し持っててくれてもいいよ」
軽めを装って、いや実際軽い気持ちで言ってみた。
しかしその言葉も軽く断られた。
返す気がないことよりも、読む気がないことのほうがずっと悲しい気持ちになることを知った。
彼女の「ごめんね」は、「借りっぱなしでごめん」ではなくて「読む気をなくしてしまってごめん」のほうが、こちらとしては正しく聞こえたと思う。
しかし私も、家に同じ気持ちになっていた本がないことはない。「読みたい」から「読まなきゃ」になってしまっている本が、1冊もないとは言えない。
でもこの日、絶対に読んでから返そうと決めた。
こんな小さなこと、私しか気にならないかもしれない。けれど他の人に同じことを私がしたら、私自身が気にしてしまうことが目に見えている。