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父は俗物だった。

幼い頃、弟ばかりが親に可愛がられたというコンプレックスか

親の仕事を手伝わされ満足に学校に行けなかったというコンプレックスか

前妻に大金を使い込まれ財産を失ったというコンプレックスか

人を信用せず、思い込みが強く、あくが強い

中小企業の経営者の典型のような人物だった。

センチュリーを買った日に

「センチュリーってなんの意味かわかるか?大統領や!」

と豪語したり

小料理屋に飾られた信楽焼を見て

「いい備前やな」

とウンチクたれたり

家庭内暴力もする。

ええ格好したがるわりには教養も見識もなく、20代で立ち上げた、奈良の田舎町ではそこそこの規模になった会社のオーナーであることが唯一の生き甲斐だった父。

そんな父が昨年11月26日に亡くなった。

数えで80歳だった。

数年前から老人性うつ病になった影響で次々と部下をクビにするなど経営判断のミスや、家族間、親族間の齟齬が目立っていた。

僕もたびたび不愉快なことをされたり迷惑をかけられたりで、2、3ヶ月に一度、何かの用事で会うことすら憂鬱になっていた。

だけど、そんな父が亡くなる2週間ほど前になんともおかしな食事会を開いた。

関係が悪くなっていた親族たちをあえて呼んでの食事会。折からの不摂生がたたって急激に体調が悪化していた父は、見る影もないほどに痩せており、母にかかえられるようにして席についた。

「なにもこんな体調の時に食事会なんかしなくても…」と思ったが、さらにおかしなことは続いた。急に「歌いたいな」と言い出し、個室でもない店中にもかかわらず、グレープの「無縁坂」と童謡「赤とんぼ」を続けて歌い、それを終えると「これまでいろいろありましたが、これからはみんな仲良くお願いします」と頭をさげて挨拶。

あり得ない行動のオンパレードに、一同はあ然としていた。

その後、座っているのが辛いということで父は駐車場の車内に休みに戻り、ほどなくして会自体もお開きに。

この食事会の翌日、父は緊急入院し、そのまま帰らぬ人になった。

あわただしい最期だった。

亡くなってしばらくして感情が落ち着くと、父が病衰の中で自分の死期を悟っていたことや、人とうちとけられない偏狭な精神の中でそれでもなにかしらの理想を追い求めていたのだということが少しずつ理解できた。

僕がまだ小さな頃、うでまくらをしながら楽しげにいろんな話をしてくれたことや

毎週のようにいろんな飲食店に連れて行ってくれたことを思い出した。

奈良の竹の館、布施のみやもと、難波のかどや

いずれもざっかけない店だが今でも好んで行くところばかり。

大人になり、父の人柄の醜い部分ばかり目について心の距離ができていたが、たしかに僕は父に愛されていたのだろうし、その影響は深く刻まれているのだ。

似た部分があったからこそ距離ができたのだろうか。

そんなことを思うと人が生きるということはなんとも切ない。

僕は明日、3月8日で38歳。

たぶん死ぬまでにはもう少し間があると思うが、なるべく父のような生き方はしたくない。

幸せに生きたい。

幸せに向かって生きたい。

それがせめてもの供養になると信じて。

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