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第5章:光沈む庭床より、

  「人魚って、

 フロウフシなんだよね。」

 上澄みではない。その言葉の端緒を言葉の余韻を、ひと音ずつ、記憶の唯(ただ)“底澄み”の一片で聴いている。
 その時、ペン先は強くインクの溜まり染みを、ノートに押しつけていた。記憶の“底”の方にある、薄っぺらいきるきると瞬く乳白色の膜、わたし、潜在の眠りにこの足を濡らしていたよ、な、にも厚みを持たない情報の量。
 潜在意識とは、良く氷山の下の深い海に例えられる。それが、私の場合、違う。深い海の姿が、少し大分違う。例えばそれは、柔らかく添える母体から、かようような、温やかな感情の白き乳の繭の絲。その表層の下は、ぽっかり空洞。そう伽藍堂(がらんどう)。そして、その深過ぎる『ないない』のずっとずっと底に、その『記憶の底澄み』があったかもしれない。
 うすらおそろしく、寄り添ってくる想い出の情報の質は、慕わしく輝かしく甘く罪を持ち不穏。そんな感覚があった。そして、薄い。薄っぺらだ。
 消え果ててしまった。今日この時以前のことは、過去の揉み消された記憶として、私の想い出たちは別れ際に素っ気ない。それなのに、時折、ふいと顔を出す彼ら記憶の端くれが、懐かしくて、苦しくて、(何なんだ。)と云う、うそら寒さを伴う。だいすきで、だいきらいだよ。そんな半分空っぽに満たされた、一片の感情。

 『聲で命を救う妙声鳥。』ーーその走り書きの後に続く殴り書きを、またもや見つめる。何故だか根拠は分からずとも、心にざわつく感触が走り続けた。

 ーー『聲で命を奪う人魚』、
 ふと、白い仮名と朱鷺(あか)い漢字がーー『で』が『を』が『奪』がーー優しい眩暈(めまい)のように、ちばちばとちいさな翅(はね)をばたつかせて、飛んだ。淡く陽に照る、塵の光は時をゆくら染めてゆき、私はその只中、ぼうっと雨のなかを泳いで、胡座(あぐら)をかく椅子の座面と肌のあわい、冷たい風が身をくねらせてゆく。心象風景が、白と鴇(とき)と碧(あお)の身体をもった人魚に変わった、とき、はツばツ、と尾鰭の跳ねる音が反響する。

 『人魚』その鰭(ひれ)には何かが絡みつく。自由を奪われた感覚に喉が詰まる。天突(てんとつ)を突かれた感じ。痛み。凄み。ぐじゃすじゃの、繭の光の束のなかに籠(こも)り切り、これは私自身の姿ーー半人半魚が絡みつくーーそんな姿に重なってさえ見えた。それが伽藍堂の記憶の光沈む庭床(にわどこ)に、泡沫(あぶく)と藤壺で隠し消したような、碧い帷(とばり)に閉ざされた私、泡立つ海の底で身動きも取れない人魚になる。

 この、今の瞬間に蘇った『聲』に触発されて、私自身が、視(み)える。繭に閉鎖され声を奪われ奪う、恐ろしく哀しい人魚に近しくとも遠くなどないことに、気づいてしまう、瞬間があって。しまった。
 こわわ。やめよ。
 ちょっと“義太夫節”に、
 ヤァトト様ハハ様、ワタクシハ人魚トナリ、モウ幾許モ、オ二人トモノ人間デハイラレマセヌ……自分に言い聞かせたら、少しは、この寒気立つ感じが、報われるかな。だいじょぶ妙ちゃん、世界一頑張ってる。
 ざああん、と二度、外の落葉樹らが枝と枝を激しく打つけ合い、風に惑いながら斜交いに降り注ぐ雨に、大きく揺れ動く音が鳴った。それが瞬時に止むと共に、雨は静かな霧雨となって、向こうから明るい光が垂れて落ちて、私の足元の床に木漏れ日を落として来る。その折に、記憶の『聲』が柔い光として、静かに足音を持って私の足の目の前に、小さな煌めく足を揃えて立った。世界すべてが真っ白な時を迎えーー

 「人魚って、フロウフシなんだよね。」

 ーーね、妙ちゃん?おしえてあげる。ーー

 「もし人魚がフロウフシなら、人間の命は、海の底で咲いては散る泡みたいなものかもしれない。何度でも掬い上げて、また消えていくだけの、ただの、カツテ声を持っていた命…。それとも四季のなかに咲くひとつの命のようかな。ただ過ぎてゆく枯れてもまた摘んでしまえば良いだけの、ただの人なのかただの、水で出来ていた殻だったのかな。」

 ((ちがうよちがう、四季くん。妙ちゃんね、天の神様の言うとおり、なのなのなしてたけど、今わかった。妙ちゃんね、四季くん好き。ボーイフレンドとして。人魚にとって四季くんが泡だけなんなら、妙ちゃんが四季くんをダイヤにする。))

 「でも、本当にそれだけなのかな。人間の聲が、誰かの心に小さな波を立てることができるのなら、それは泡以上の意味を持つんじゃないかって思う。それが、人が人魚になる時だよ。」

 ひたひたとよこぎる雨の光鱗(こうりん)、夕影草が降りてきて、頸(くび)のつけねからすーっと、耳元で白い光の声が囁いた。まだ幼い女の子のような、高い声。愛くるしい、守ってあげたい聲がする。多分男の子、『“ぐぐ”すればフツウ』だとか、幻聴のなかで朝方言っていた、あの男の子の声だ。また蘇った。この記憶は、何。うん、男の子。四季くんだ、四季くんだ!

 伽藍堂(がらんどう)。

 ーー四季くん。
 雨音で縫い閉じられた、
 遠い記憶がまた雨音で縫い解(ほぐ)されて、
 1995年へ引き返る。
 病室の窓の向こうで粒が跳ねた――。

 あの病院の一室のあのベッドの上で、

 雨の音が窓を叩いていた。
 あの瞬間、
 どうでもよくて、でも、
 密かに好きでもあり続けた『四季くん』は、
 私にとって“特別”な存在になった。

 『人魚』に途轍もなく、
 怒った。
 私は怒っていた。

 ((私の今し方好きになった、
 私の四季くんの心を奪った人魚が、
 悔しい。))

 そう幼い嫉妬心を剥き出しにしていた、
 残暑の9月。
 それでも、あの日、
 四季くんは『人魚』についての話を
 やめなかった。

 四季くんは可愛い、切れ長だけれど大きな透き通った瞳をしていた。その両の眼を涙で泳がせながら、私の二つの眼を捉え、あの日語りかけてきた。雨が窓枠のうえの、水族館のタグのついた、ちいさなサーモンピンクのジュゴンのぬいぐるみチェーンの背後で、寄り合って粒になっては消える。地団駄が踏みたい気分だった。じれったい。四季くんは流れる涙を、唇の端で受け止めて、晴れやかな笑顔で笑ってくる。そしてぽつり、呟いた。

 「でもね、人魚になった人は、オソラクいっつも泣いているんだ。ごめんね、自分が命をさしだせば、テンジョウテンゲにそう誓っていたなら、君を救えたのにって。人間を恋しんでる。
 でも、人魚にはひとつの体しかない。救えるのは一人だけだ。だから、縋ってくるお母さんから、あのお父さんからも姿を隠して、独りっきりでリュウグウジョウで、テンソクを自分の鰭(ひれ)に縛りつけて、泣いているんだ。もう、何処にも出掛けられないし、誰も救えないように。そうしたら聲も出ない人魚になるんだ。なんにもない、失くしたことの自由だよ。」

 幼い頃の妙には解らない。
 入院の知らせを受けて会ってより、日に日に四季くんは大人びた。『妙ちゃん』の『知らない四季くん』になった。そして格好良い。何よりもの、四季くんの知性が初めて、妙にとってあの時期、輝いた気がした。
 「でも、人魚には足がない。テンソクは絡まるだけだ。いつか解けて海を浮かんでゆく。自由だから、少し悲しいね。ずっと先、四季がなくなってしまった地球に、人魚はどうして生きてゆくんだろう。」
 ((四季くん、頭良いのにお馬鹿さんみたい。子どもは大人より先に死ぬわけないのに。))
 その思考が昔のことではなく、今、返り咲いて来たことに、ズクんと言う鈍い『大っ嫌い』が心の中を通り抜いたーー自分自身への。幼い子の声で発せられた、四季くんの童話のような哲学的でもあるような、そんな不釣り合いな不気味さに、少しゾッとする。繭に堰(せ)き止められていた、『外』のあやうい存在が、不自由に覚えきれない存在として、浮かび上がって来る、恐ろしさだ。『だいすき』だった四季くん、その訴えていた声をなぜ時と共に、なかったもののように忘れ去ってしまったのだろう?
 足元の葉擦れの光と雨は、四季くんを霞に変えて、そっと旅立たせてゆく。

 「ママ、」反射的に私は自分の座るテーブルの後ろのキッチンの、母の存在の背に隠れるように、話しかけた。「私って小さい頃仲良かった男の子っていたよね?」気になって、少し甘いのにおぞましいような気持ちにもなって、母に尋ねる。ぴえ。

 「さぁねぇ…中山近くに住んでいた、遥多くんとか、仲良かったかなぁ。中山って、バス停が複雑なのよね。ママ、バスから降りたら妙ちゃんと“手っ手”繋いで、随分と遥多くん家に着くのに時間かかっちゃった記憶。」
 ちがうちがう。四季くんの方だよ。妙は微かな苛立ちを感じつつも、あまりにも透き通った記憶に対して、気を逸らしてしまえる邪念が欲しくて、話にのぼった『遥多くん』を一生懸命思い出そうとする。その間も母は話を続けている。首の後ろに手を回し、歯を見せて笑う失敗顔の母の、大体想像のつくその先。さも共感を寄すように、にこにこと笑って聞くが耳に入らない。母は笑顔の聞き手に背を押されて、さも可笑しそうに両手で口を覆って、話の顛末(てんまつ)を語ってみせる。ちょぱ、と、蛇口。一滴の水。留まりきらない音を立てた。母は「これ!」と後頭部から、ピンクの筒を勢い良く、お披露目する。
 「カーラー!!遥多くん家までの、その間の道のり、ずーっとカーラーを後頭部に巻いたままだったのよね。ふふっ、帰りのバスでオジサンが一言だけ、つっけんどんに『ソレ』とだけ教えてくれて、『ソレ』だよソレ、恥ずかしかったあ。でもオジサンの朴訥(ぼくとつ)とした感じ、真面目で可愛いでしょ。ほっかに誰も教えないもん!オジサンだけ優等生あがり」と母は嬉しそう。いつも通り母の星は軌道が逸れて、有益な情報は得られず、私は頭を搔く。
 「オジサン、“伝えようか、伝えるべきだろう、いや伝えぬべきか。”…心臓、“バックンバックン。”」
 最大限の家族サービスで、両手を左のバストラインで揺り動かして、笑ってみせるのに、気もそぞろか頭に力が出ない。ふと全ての脳のエネルギーが使い果たされてしまって、煮えていて、目を瞑(つむ)るしか方法はないのに、頭は煮えながら思考が巡っているかのような、目を瞑れぬあの疲れを感じた。ソファに寝転がる私だ。殴り書きとインクの染みと折れと草臥(くたび)れ。ノートを胸の上に置く。さぱりと捲(めく)れる乾いた音も、気のせいか、湿気を感じて重い淋しさを添えた。

 ぼうっと考えている。

 (四季くんは、また会おうねって言って、半開きの拳を絡ませあって、親指で挨拶してから、あれっきりが最後だったな。)
 どうしてか夏祭りーー
 ……なんだろう、記憶が混在しているな。凄く素っ気なかった気もする……。
 そう飛び交う電気信号の脳に僅かな、震える太鼓の脈、微かな音圧を感じながら、目を閉じる。ゆっくりと身体を預け、ソファにだらけてゆく。私は人魚。この頭の不自由も、『聲』による不自由さも、自分の勇気さえ出れば、解決できる……薬があるから。
 ……薬がなければ、と涙を半錠
 飲む、
 あの四季くんには、正しい薬はなかったの?
 (人魚の鰭に絡まる纒足(てんそく)は、海に解けて、解けたんなら繭の絲も切れる?漂い去ってく?そうなんだよね、四季くん?私の繭に生えようと今頑張っている、このちいさな脚も、するすると脱げたなら、軽くなって飛ぶことを助けてくれるんだよね?)
 ゾッと空震いしてしまう、不透明な記憶なのに見透そうと考えてしまう。ーー『聲』が誰かの心に小さな漣でも、立てたとしたら……そう四季くんは言っていた。遺された私の『声』で語る歌は、幾層にも重ねた時の哀しみ苦しみ幻を、滲み出る淡く優しい感情で歌い上げただろうか。甘やかな繭で包みあげて、絹織感情を、そっと手渡せる歌になれるだろうか。そんなことを希(ねが)ってしまう私。内緒話のように。秘密裏に。やおら半身を起こし、ソファで身体を斜めにしながら手にしていたノートに、今度は一言一句、丁寧に書き起こしてゆく。

 ♪今日が始まるよりも終わらぬ昨日
 追いかけてゆく
 正しかったはずの
 こと、間違えようも
 なかったこと
 成す術もないような、そんな人を
 待って浅い眠りに握る手で
 半開きに奏で続ける
 淋しさ抱き締め〜♪

 バァンと放った。お腹の上に放った。古い暖房はカラコロ鳴っている。溜め息を吐く。こんなんじゃダメだ、響かない。『恨』がない。

 大学の選択科目で学んだ、これだけは唯一覚えている。『恨(ハン)』の概念が、常に詞を書く私の頭を右往左往している。
 ーー『恨(ハン)』とは、朝鮮の文化的思考概念で、ただ単純に『恨み』を指すものではない。積年の嗚咽慟哭、恋に深い慈愛、諦めと達観、怒り、平穏の只中で享受する安堵といった、あらゆる感情が織り重なったものを指して、『恨(ハン)』と呼ぶ。それは芸能にも通じる思想なのだと。ーーその心の襞(ひだ)が私にもあるのなら。私も私の『恨(ハン)』を歌えるはずだった。

 ハン、と鼻で嗤って、その思考の中心にわだかまる、人魚の語り部の主、『四季くん』を当面『ググ君』と呼ぶことにして、歌詞の断片と一緒に、キッパリ頭の片隅に追いやることにした。
 (私が『ググちゃん』に育ってしまったのは、『ググ君』のせいもあるのかもしれない。何てことをしてくれるんだ。死ぬなんて。…死んじゃった。悲しいかな、精神病になったのかな、それで。精神病になっちゃったのかな、私?でも変なの、喪失感とお葬式、その後のカウンセリングの日々とか、ありそうな記憶のその先が、すっぽりない。)

 あーあ。と、大福餅の粉を椅子下に払い落とし、「やっぱ考えるのやめた!」と言ってソファを勢いよく立ち、スリッパで愛しのわんこ達の古い爪痕の残るフローリングの床を、叩いた。手のひらの残りを洗い落とすため、洗面所に足を運ぶ。たぱたぱ跳ねさせるスリッパ、少し軋む柔らかい水空色の塩ビタイルを踏みしめ、まだ私は私。姿鏡を見たあとは、壁を見ないようにして、窓の外を睨む『儀式』を取り仕切る。あの幼い頃からの、不合理な習慣だった。

 記憶の伽藍堂(がらんどう)の底で聴いた、四季くんの言葉が、雨をふぁりと巻き消す静かな風に、棚引いて消えてゆく――。
 新しい空気を吸うその瞬間(とき)、あの『ちょっと素敵な、洗面所』から、愉しげな声が、今に沈む私を掬い上げてくれる。裏のお宅からの笑い声ーー。

 ここは構造的に、一番、裏のお家と近い。良く焼き芋の匂いと一緒に、笑い声が漂ってくるのを、密かに生活の足しにしていた。今日も元気いっぱいだけどか細い声のお婆さん、とお孫さん、私より歳上の女性と歳下くらいか、青年の掛け合いが聞こえてくる。きゃははは。なにそれー。

 「可愛らしいよね。知らない、何かが水面下で起きている。」
 「あれじゃない、舜がおばあちゃんに似て美形だって聞いたからじゃない?」お姉さんの声が明るく、ケタケタ笑う。

 私の『頭の煮える不快感』はスポンと頭から抜けて、『ググ君』も記憶から手を放し、つい耳を、そば立ててしまう。ヤァトト様ハハ様、今シ方、妙ハ人間ニ、戻リマシテデ御座イマスル……
 (“水面下で起きる人”と言えば、私しか居ない。)そのことは、天上天下に知られてのこと周知のことだ。この病気にかかって以来、心のなかで齷齪(あくせく)して、ドギマギして、期待して打ち砕かれて、燃え尽きるようなあの感覚を、一人芝居で生きてきた。
 同じ暮らしのなかで生きる人々の現実には、これっぽっちの変化もなく、皆ただ淡々と過ごしている日常に、妙だけが水面下で“起きて”きた。『大気圏突入の夢』と妙が呼ぶ、幻想と現実の凄まじいギャップこそが、妙の星を宇宙(そら)から降り注がせ、ころんと雫サイズの海に置きほっぽった、紛れもない違和感だった。気になって、気になり続けた、雫下の私は、さっき睨んだばかりの磨りガラスに格子の窓に、そわと耳を寄せてしまう。なんと?

 「やめてよ、梨花(りんか)だって、美形だからって熊さんに『蜂蜜のど飴いらない?』って言い寄られるんでしょ。」
 「違うでしょー、あれはお姉ちゃんの声がガサガサだから。イジってるんだよ、熊さん達。」

 明るい姉弟の声だ。雨が一本の絲なら、この声はキラキラのフサフサの、黄金の飾り糸だクリスマスを予告する、祝いのシャラシャラのような輝く煌めく、優しい可愛い人の良い笑い声だ暖かな光だ。四、五週間ほど家から一歩も出ていなくて、何年も若い男子と話していなくて、ただ単純に、沁みる。私が付き合って来た、癖のある類の生命体とは違う、澄んだ声。単調だけど、真っ直ぐな声。

 その声に耳を傾けながら、知らず知らずのうちに息を深く吸い込んでいた。脚に若干の震えを感じ、その中を血の流れが、聲を急かすかのように脈打ってくる。やばい。震える。繭内(まゆうち)で薄墨色の雫のうえを覆っていた、濃霧のような切な苦しい感情と内なる声が、優しい肌触りの湿った冷たい空気にすら、感じられる、この心地よい何かを一掃してくれる明るい陽射し、この温やかな体温。

 「でも、裏方さん、唇かわいい。ちらっと見たけど、あれは男が好きな唇。」耳をそば立てた先で、裏の『舜』さんは言うから、冬に弓張り月(づ)いた、ぽてり唇がちいさく痺れ打ちながら、可愛い気持ちについなってしまった。三本指を添わせて慄(わなな)いてもう阿呆やん。「でも、鼻の下が長くて…」と、今度は『舜』さんのその声に、下唇を噛む。みたいに変につらい、想い。だって、馬鹿でしょう、こんな一喜一憂して。今までの幻聴のパターンに、すっぽりと入る正・解・。

 『存在しない人が壁を境に私に恋をして、
 その恋の形がだんだんと崩れてゆく』
 --これが私の幻の描く
 人生の方程式だった。

 耳鳴りがもわんと痺れて鳴った。

 これが幻聴だなんて、誰が証明できる?
 確信犯だよ。
 幻聴は私が恋をするのを分かり切って、
 現実に生まれ変わるために
 私を利用しているんだ。紛れ込むんだ。
 これは酷い幻聴。
 もはや、もうどちらでも、 
 何処までも……!!……現実みたいで
 、よい。

 でもーー、現実の方がこわいよ。
 恋できるのは、こわい

 でもーー、
 そこはかとない、この現実み
 、よい。な。

 「鼻の下長い。ひどい〜。でぃすり」と、なけなしの理性を破いて出る。姉らしい『梨花(りんか)』さんが抑揚をつけて、軽やかに尚温かく非難する声、私の動揺などお構いなしだ。
 「違うんだよ。鼻の下が少し、絶妙に長いところが、なんかハムスターみたいな小動物みたいな感じで、おっ、いいなぁ(『いいなぁ』)と思って!」と、姉に呼びかけられた『舜』さんが、弾けるように笑う。--あれ、『いいなぁ』が私の思考と重なった……これ、私だけの思考?ほんとは。私が頭で合成してしまっている、聲だけなの?
 「でたぁ、舜の可愛い動物フェチ。そんな言い方してると、女の子に『もっと可愛いのは、どっちの方だろう。ハムスターの方?私の方?』って思われるから、やめな」と、梨花さんのカサカサ声が嗜(たしな)める。好感の持てる爽快な声音だった。ぴこぴこ、と私は意識して、つい自分に小鼻をひくつかせてみせる。と、私の可愛い気分を邪魔してみせる「あのお嬢ちゃん、最近、ごぉくたまにゴミ捨てに来るよ」と言う声とは、彼らのお婆さんの声だ。

 「偉いよね、一時期はマスクして俯いて、顔をなるべく前髪で隠して歩いていたのに、今は堂々と姿を出して近所を出歩いている。まあ、あまり家から出ないみたいで、出るとしたら月に一度くらいの、そのゴミ捨てか、或いは父親の迎えなのか、奥さんの車に乗られてゆくだけだけど、明るい笑い声でよく花壇の樹木の話をしているよ。」
 お婆さんの芯の強く、反面弱々しい声に対して、軽やかな舜、くん、の声が少し高く、それでいて艶やかで、逞しい。舜くんは応じた。「素晴らしいよねぇー!ほんとに同一人物かと疑う。性格総入れ替え系だよね。」彼は朗らかに笑う。

 逞しい話し声の『性格総入れ替え系』という響きーー悲しいけれど頷けて、それでいて何か何処か望ましい。反論したい部分もあって、縋りたくて、あ。多分、

 ずっと私を遡(さかのぼ)ってまで見て来て、
 それでいて好意を感じてくれる人が、
 世の中に欲しいんだ私。

 理由がストンと腑(ふ)に落ちると、この会話が、自分が組み立てた理論のような、幻のような気がして、気が滅入る。(なぁんだ…それはそうだよね。やっぱり)と、この言葉をこの人生で、幾度思い描いて来ただろう。萎(しぼ)んでゆく繭玉のこざっぱりとした諦観が、私の『ヤッパリ輪廻』であり、可哀想、な感じであった。萎(しぼ)む繭玉はそれでもまた膨れる。『ヤッパリ輪廻』の軌道を廻りながら、膨らみ過ぎて軌道を逸れそう。弾むような舜さんのキレの良い息骨を吸いまた弾む弾む。
 もう私はまるで肩は緊張、丹田(たんでん)あたりは緩く深くなり、心のバランスをとるのに、まるでほんとにてんで危うくなってる、

 「あの子に会うために、僕も毎回毎回、ゴミ捨ていこっかな!いや、毎度はダメだな、悟られる。週一か、たまに行かない週もあるくらいが、自然なときめき発生源。」
 「やだあー、下心満載ー!おばあちゃん、この子止めてー、裏方ちゃんのことになると、変に挙動不審なんだから。」姉の梨花さんは、可愛い奴、とばかりに弟を笑い飛ばす。私は肺の袋いっぱいの空気をギュッと握られたかのように、息を止めた。どうしよう。会ったら。綺麗にしていなければならない、と云う難儀なことは、どうしよう。……久しぶり過ぎた。

 『裏方さん』と呼ばれたのは、演劇関連の関係者の女の子だろうか。そうとも思ったけれど……けれど……。形を持たない想像が、トぅとく……と繭のなかで、ちいさな光を持って転がり始める。まるで、光合成をした、蚕の妖精が差し込む光で、生命を得ようとしているかのように。“ぐぐ”っと、ハグ、されたくなる。幸せが、近過ぎる。舜くん。もし、多分、かなり、あの声が私に向けられているものなら——私を呼んでくれる人が、この繭の外にいるのなら——私は魔法をかけられて、カイコガ以外の何者にだってなれる。…いや、そんなことあるはずないのに、と自分で否定しながらも、心の奥では芳し過ぎて眩しい、光がじわじわと広がっていた。

 すき。
 迸るほどに今、恋がしたかった。

 彼の顔に、瞳に、
 初めて見下ろされたい。

 ちょっと、すき。

 裏の家で笑いが巻き起こった。

 「裏方さんにキスされたい。それで、寸前で『ダメだよ。まだ、君は捨て鉢(ばち)だから、愛が微笑った時まで、僕は君の背もたれでいる……」と、舜さんの、そのハキハキと円やかな、声の輪郭に触れる私は、繭から心臓部と共に弾けた。文字通り、弾け切ったくらい、鮮烈な、ない、感覚、く……。

 『裏方さん』は、多分、“幻の私”、私の幻なんだ——理性ではそう信じようとしても、心が好き勝手に妄りに夢を求めてしまう。舜さんは続ける。「背もたれとなって、君の背負うものぜんぶリラックスタイムに変えて、そしたらそのうち一緒にエナガの写真集見ながら、横になってキスをしよう』って言いたい。俺が全部ラクにしてやっから!って!あはは!」
 ぅ、、にゃぁー。
 はにかむように、それでもなお明瞭に言い放つ、彼の言葉がちょっと愛嬌が過ぎて、恋人とはこのようなものか…と、幻にこの世の常、理を教えられる。
 「なにそれ、妄想〜、ダサすぎる〜!」またケタケタ笑う、姉の『梨花』さんは愛がこもっている。いかにも『弟と和気藹々育ちました』という感じだ。凄く、凄く心が惹かれ幸せになるのに、鳩尾(みぞおち)あたりから肺、そして喉と這い上がって来る、暗い感情がカタカタと繭を震わした。

 --絲緒里(しおり)のキスの意味が今ならわかる。

 --絲緒里は、唇を放す時に、絶対に力強く放したりはしなかった。
 襟元を正して置き去るように、そっと整えたキスで、突き放す。

 必要だったの。
 愛じゃなくても。
 酷いほどに。醜いほどに。
 ((絲緒里を吸い紫葛(しずら)うほどに。))

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