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第6章:、珠の音たてて。

 絲緒里(しおり)のキスの意味が
 今ならわかる。

 絲緒里は、
 唇を放す時に、
 絶対に力強く放したりはしなかった。

 襟元を正して置き去るように、
 そっと整えたキスで、
 突き放す。

 捨て去ったりはしない。求められた女の心身を、傷つけるようには。だから、照(みつ)の強引な明るいキスを、しっとりと唇で整えてから、静かに『やめろ』と怒る。

 慈しむように、
 甘くはない。

 縫って、縫って浮かんでゆく。ちいさな逃げ惑う羽毛が、困惑が、一つ(いっつ)、とか、さなり、とか……ふたりの間を唯ひたすらに泳いでゆく。私だって、私だって、この空気のなかを、あなた達ふたりの間を、一緒に生きているのに。このまま?ずっと、このままなの?羽毛一つになって、あのまま、冬の窓に吸われて消えたい私になった。
 現在、なんだよな……あはははは!ばっかみたい!……裏の家との間に存在する、『ちょっと素敵な、洗面所』の磨りガラスに耳を寄せていた私は三十幾歳で、健康を気遣う五本指スリッパを履く歳になっている。磨りガラスの凸凹をちるちると散る、車のライト。追って、追って記憶の跡について行くと、そうすると、目の前には二十五に届いたばかりの、照(みつ)と絲緒里。眩しいくらいに美しい。

 私たち三人は、七年か、六年か、どのくらい前?振り返ると、今の私がいるこの場所から、それほど前の雨の日に跳ね返されるようだった。
 ……あの日も白い羽毛布団のうえに座っていたんだった。
 いつものように、他の子たちからは離れて三人で、外は雨。
 流石に靴下の足も、蒸れた湿り気で寒い。
 流れるように、寒い。

 靴下のなかの裸足の、か細い想い出が、『舜さん』の彩る上澄みからいつより色濃い、影、の、よう、な薄い底。……、ちゃこん。転覆。イマと往時が、ひらりと逆転する。

 もぅー、へーんな子ぉー!……イマの私の置かれた、隔絶された繭の洗面所に引き帰っては、つい、しっとりと、あの昔の雨のなかを生きているような気になる。雨は天を巡って、地に戻って、また天を巡る。ちゅくり。滴る音が土気を帯びて弾き去った。そう。そんな感じか。これは、私の命運の星と繋ぐ、一本の雨の絲が、ふたたび時をまわり回った。今もあの時間軸に私を結んでいるのだ。そんな感じの雨の日なんだ。

 記憶のなかの消えそうだったコが、未だ、ずっ、と、立ち止まるの。どうしたって、そこで?立ち止まるの?

 ちるちると逃げた羽毛が、
 また考えなおす。

 回れ右して照の胸元に休んだ。

 静かに考え続けているみたい。

 正された襟元に、
 ふいと視線を落とす、照、
 あの子は片手でその蝶の形を整え直すんだ。

 羽毛をトン・トンとする、
 薬指。

 にぇよ、と微笑う、
 あの子の一重魂具(ひとえたまぐ)は明るい。

 美人一重の亜種だと言うに仕方がない。
 『一重魂具』ーーものの扱い様に依りけりで、その如何次第で清められもし滞りもする。

 者の命運を分ける類のこういった一重を、そう呼ぶのだと『花夜人(かよひと)』が諭した。その花夜人はと云うと蚊帳(かや)の外。二階で『にがうり』を誘っている。ような、聲(こえ)がする。

 (こんな時こそ、
 傍で同じものを視(み)ていてよ。)

 「そして、他の者から隔絶されて、
 変異していった瞳だから、
 照の瞳は淋しくて、
 群を抜いて、輝く。」

 その子、
 照と交わることの末恐ろしさを云うのだと、
 花夜人(かよひと)は

『泉照様(せんしょうさま)』と呼ぶ、泉照(いずみ みつ)に距離を置いている。、少し。恭(うやうや)しく、軽やかに。

 それが、私に対する花夜人の敬意だと、
 密かに知っていた気分。
 本当のところは分からない。
 でも花夜人は私の味方だ。
 そんな不確実性が、
 今だに物凄く、
 十八年の時も褪(あ)せずに心に痛い。

 絲緒里のことが好きーー
 私の心を、あのなかで唯一、
 尊重してくれたのは、
 あいつだったから。
 誰より長く、私を知った、
 あいつだったから。

 「尊厳を、生きてて当たり前だ文句あるかって気持ち、自分のせいみたいに失くしたよね……一欠片返してくれたこと、尊厳、返してくれたこと、感謝してる……」だから、

 花夜人の尊厳という遺失物が、
 未だ私の柔らかな頬袋の
 ざらりとしたうちに在ることを、
 申し訳なく、
 唯(ただ)申し訳なく思っている。

 照が絲緒里にキスをして、
 絲緒里が照を離したあの日あの時、
 私の双眸(そうぼう)は揺らいでいた。
 多分、六年くらいの昔。
 花夜人に合いの手で助けて欲しかった。
 心の底から、
 どこに泳いでいっても良いのか
 分からなくて、
 とりあえず絲緒里を凝視していたんだ。

 無理に笑顔いっぱい咲かせて、
 いっぱい頬袋に考えつかない
 砂利じゃりの言葉を溜めて。
 大切な人。私のすきな人。(いかないで。
 私が照より、可愛いと思えないの?)

 照(みつ)が照を引き離した。具体的には、絲緒里が引き離した。あの男の人は微細な時を、瞳に心を焼(く)べ、燃やした。人より色の黒い虹彩のなか輪をかけて、暗墨(あんぼく)の膨ら丸い瞳孔の奥に何も煩わない。煩わぬ玄黒(げんこく)の色、静寂の色、慈愛の果てなく続く。、ような、だいすきなその深み色。

 彼は
 深み色に、
 照だけを、
 迷いとして持っていた。
 確かに、
 持っていた。

 そんなような。
 一瞬の躊躇(ためら)う、
 絲緒里のなかの
 自分羨ましさが
 、きらい。

 内心は照に触れたがっているーー
 明け透けに見えてしまって、

 絲緒里の墨流しの着物の裾を
 無闇に掴んでいる、
 私。

 (照?

本当に私が絲緒ちゃんと幸せになりたいんなら、いっぱいきっかけ仕掛けてあげるねって、言ったの、

 これ、今、どうするのが正しいの?)

 母を想う、赤ちゃんみたいな、
 一心の思んのぎゅ、だ。
 拠り所としていた。

 二階では『にがうり』らの観ているテレビの音・『声』(おんせい)が、微弱電動を発している。地震速報です。沿岸部における津波の影響はないようです。繰り返します……少しだけ、微かに雨が地に墨流しの模様を描いたように、少しだけ、古い畳がゆぅると揺らいだ。きっとだろう、震源はこのました。ころっころ、ころっころ笑っていた私の記憶だ刺さってくる。

 ね。
 「絲緒里ちゃん!今……揺れたよね。バランス……崩した?……」

 私は騒がしい真っ白を、もっ、と、もっと急かして、いっちばん虚しい言葉を探した。
 こいつめ、『女狐ちゃん』の『稲荷』め照め……「いないなの唇にっ、ちゅどん!真っ向飛び込む算段をさせて、大世界天球を揺るがした……!!お稲荷様が!絲緒里が自らの手中に入るように、ガイアまでもを震撼させた。近づかざるを得ない!んやない?流石やなぁ。けーん……けーん……、」あの時の私の

 言葉を

 理解した者はいないだろう。

 眼中になかった。

 白い布団から半身をだして、うつ伏せになったまま、部屋の角の古い柱を両手で揺らしていた。最早一人遊びだ。泣き笑いだ。揺らす両腕で隠し仰るかのように、傷心の痕跡を交互に拭いながら。馬鹿。傷ついたっていいのに。
 傷ついたって良かったよ。照は微細な空気の揺れを感知することが、得意だった。それにも増して、微細な空気の揺れという情報を遮断できず痛がる、私のような人間が増幅させる揺れの振り幅を、愛した。『妙たえ』が空気を読めないから、弄ぶのでは決してない。これが、お稲荷様なりの“ピューリティー”だった。

 「整理整頓って、取るに足らなすぎて愛しすぎる」ーー記憶にある日、照の放った言葉だ。夏、だったろう。多分、私が記憶の雨に結え戻された、冬と同じ年の夏。秋ーー
ーー秋が、照の癒しとリラクゼーションのため、準備された期間だったってこと、か。

 夏の記憶の照は続ける。
 「片付けるって、このヤマを片付けて飲み行くぞとか、奴ハンを片付けて明後日来やがれとか、色んな階層の『片付け』があるけれど、詰まるところ『面倒なこと。』」照は日本酒を煽って、無口な花夜人に次の杯を満たさせる。雀が今季新しくこさえた巣で、チュンチュん鳴いている。
 「その面倒ごとのなかでも、人間関係の整理整頓が、わりかし一番“grounded”な文脈で肯定的に近年、持て囃(はや)される傾向ってあるよね。時間は有限で、その有限な資源を、自分に真に価値ある人材に割こうって、現代の侍魂。淘汰、淘汰、淘汰をされて、私ここまで至ったの。じゃあ、私って何?」照は火照り顔を花夜人に近づけて言った。意外だった。照はてっきり、学園の花形だと信じて疑わない自分がいた。照が子どもだった時代なんて、あるの?で、淘汰されるって状態、本当に、知ってる?
 「『稲荷』は可愛いから……、」酔った人が苦手。そんな私でも、照はいつもいつだって酔っている。だから答えを差し出してしまえる。
 「そう、可愛い!愛しすぎる〜。つまり、私が空間に居ると、男を盗られたり、ちなみに私は一切意図してないんだけどね、『面倒ごと』が起きるって事でしょう?地球の端で愛が起きてても、私が存在したら、崩れる時間的交差があるかもしれないじゃない。ハネムーンなんかしたら危ないわよ。」照はまたもや、花夜人に赤色い唇を近づけて、微笑う。外の雀が大波乱なのか、物騒にぴぃぴぃ叫んでいる。花夜人は振り向きながら、「泉照様は、面倒なお人やな」と、いつもより気弱に言って、酒を注ぐ。

 照は賢い女だ。

 賢い女であるはずの照が、
 この『臥龍窟(がりょうくつ)』では

 だらんぐだんに気を許している。
 繕わない。

 それを可愛いとさえ愛しいとさえ、
 思ってしまうから癪に障る腹が立つ。

 私は「いないな、むちゃ面倒!可愛いに理屈は要らぬ!」と嫉妬するのだ。ああ、あの頃の、私のテンション……やんなるな。
 若いって。
 想い出の照は好い具合にだらし無く、脚を組み替え、笑窪(えくぼ)をあけて、欠伸をあけて、「だぁあぁ……、」と笑いを漏らす。
 「だからね、整理整頓はだーいすき。たえたえ、かわゆ。」照の『だいすき』には要注意だ。裏には、複雑怪奇、奇々怪界なる理論が、隠れている。「おかたづけ……私が愛を守ってあげてる気分になるから。ヴィーナスみたいに与えてる気分になるから。人々のウェルビーングだって守ってあげるし、片付けの女神になって取るに足らない気分。」
 うふふふふ!と、照は高らかに手を叩き出す。あの頃の私は未だこの理屈を、あまり追えなかった。ただ、照が確かに酔っていて、なんだか淋しい気分にもなっているから、少しいつもより可愛いようにも思えたのを覚えている。花夜人は、儚げな困り顔で私を垣間見、ふと片方の口端を弱々しく上げて微笑んでみせた。酒瓶が、花夜人の拳のなかで残り3cm程に、波打っていた。蝉時雨がじんわんじんわん、残りの恋の寿命を、競っている。
 「でもね、もっと取るに足らなすぎて愛しすぎるのは、妙たえだから。」照は目を三角に挑戦的に、でもハートで満たし、見つめてくる。背の後ろのソファに放り投げていた、ショッキングピンクのショールマフラー。これがキョーキだ。私の頸(うなじ)に巻きつけ私を引き寄せる。こんなコトされたら……あの頃の私だって、こればかりはオッサンになってしまえる。あのぉ。ちいさなオジサンが出ましたよ。取るに足らないがズキンと来て、愛しすぎるがまたズキンとする。
 「こーゆー私でも、
 嫌な顔ひとつせず友達でいる。

 片付けってね、
 真価を発揮するのは、
 最後手に残ったモノを捨てるか、
 捨てないかを判断する、
 最終終着地点での、
 その0か1かのその
 人生を
 選択する場面に於いてよ。
 んにひひひひ、頭いいでしょー褒めてえ。
 その時、片付けは『面倒ごと』じゃないの。
 『哲学』なの……」

 態とらしい媚態(びたい)だ。照は酔いが冷めているのに、酔っているフリをしている。んで、私に巻いたマフラーを自分の首に、掛ける。んにひ。ほめてっ。だから私は可愛い媚態が憎いあんまりに、ふたりのマフラーの輪っかの外から、照の頬っぺたを片手で、むぎゅ、する。するのだ。蛸(たこ)になった、ザマァみろ。そのむぎゅを、十数回執拗に繰り返す。んにゅううぅ、ぷ、ちゅ、ちゅ、ぷぷ照は唇を鳴らす。こんちくしょう!そのむぎゅする私のコップに、花夜人は相も変わらず麦茶を注いでくれる。淡々とした優しい奴だ。

 0の何も残さない選択と、
 1の一つだけを残す選択なら、
 なにを迷うことがあろう。

 最後まで残った命のように
 大切なひとつのひとり、
 大事なひとりのひとつ、
 本当になにを迷う?

 1を100年だって1000年だって10000年も、
 ずっと守り続ける。
 それ以外の選択肢が、
 人間という、

 この人類史上に
 またとあり得るだろうか?

 「聡明のことこの上ない、
 みっちゃんの続きを聞いて。」

 私の「?(はてな)」の時間も惜しいと言う。
 照は私の指を
 獰猛に
 パクッとしようとするから、
 私は指をヒョイする。
 で、大袈裟なツボに嵌った、からわら上戸。

 笑上戸になったあとの、何故か途轍もない寂しい気持ちを、そのまま乗せて、言葉にしたら、『からわら上戸。』
 照は私の寂しさを知っている。私の空笑いを破るように、「1は唯一無二の完全無欠の、値打ちもつけようのない何か。」と冷静沈着なエッセイストの顔で持論を突破する。「0は最早、この境地に至れば取るに足らなすぎて、愛し過ぎて、捨て去ってしまえるものね。」照は瓶底に残った3cmの酒を、微笑みながらふらつきながら、屈(かが)んで、花夜人の唇の奥の喉奥に注ぎ捨てる。そして、「可愛いしっぽ……」と教える。はんなり迷惑顔の花夜人は、

 「泉照さん、手荒やなぁ。
 『臥龍窟』の男は男やない、

 そう思うてはんねやろ、
 けど割りかし当たり、無粋な下戸なんで勘弁」と照から、酒瓶を奪う儚いやつ。

 照は明るくさめざめとした笑い声で、手を叩いて喜び身を捩らせた。知ってる。今は。照って、そうゆうところあるよねって。童なとこあるよねって。
 遊ぶ少女が、突然『大人』の世界に放り出されて、自覚として悪も善も必要経費と理解し、『取るに、足りない』状況を作り出さない。働き尽くす。遊びの余白をつくるため。そのようになると、ああなる。希むものは手にする。だけど、ついでに希まれないものまで手にすると、神がかった酔いどれエッセイストに、なってしまうのだろう。

 ざさばしす、と鳴った。本の崩れを間逃れたヤモリが、彼女の足指と踵(かかと)の間を、すり抜けてゆく。

 恐らく二十六の私は、
 三十過ぎの私と同じく、

 『大人たち』の世界に、
 少し青ざめる時がある。

 花夜人に救われた、そんなタイミングだった。当の『下戸』の花夜人は、人差し指を自分の唇に持ってゆき、何かを合図する。私にだけ、内密に。ああ。青春だなあ。つい、三十代の私は寸暇の幸せに浸ってしまう。ちいさくにっこり、としてしまう。あいつのウインク。照の目を盗んで二人で謀った、あの時間。よかったな、よかった、良い想い出もちゃんと残ってた。(え。変なの。)あの咲くように管を撒き続けた、あの照だって、良い想い出なのにね。しっぽ、掴まれてたよ花夜人。ちゃんと。

 0と1の片付け論議。

 独り繰り出す想い出の照は、
 『0』について、
 活発に繰り広げ続けた。
 蝉時雨は、
 鳴き過ぎて最早無いものかのように、
 静まり返っていた。

 「下戸よ。
 それを『玄(げん)』の境地と言う。」
 想い出の照は、大見得を斬る。
 「一滴の酒もいらぬ!」

 思い出して、ついやっぱり、ちょっと、笑ってしまう。なのに、その照はすぐまた真面目な弁舌トーンに戻ってしまうんだ。

 「その0になる要らぬものさえ、畢竟(ひっきょう)、やはり値打ちもつけようがないもの。

 0と1は、どちらも見分けの付かないほど、逆説的に価値があり無益なのよね。

 この『玄』の境地、宇宙空間の虚空のようでいて全てを内包する、始まりであり終わりである、玄黒(げんこく)の0の境地・状態より、私にとっては1の方がまだ若干の取るに足らなさが上。かわいい。

1は、横線『一』と書くのだ諸君。」ーー

照は陶のコップの端に残った、酒の雫を指にとり、私の蚊に刺され痕のデコルテに真一文字を書く。指の熱い体温とこそばゆさの跡に、すぐに暑くなるひんやりとした風が留まる。最早、花夜人も私も、照の弁論の熱に負けて黙りこくっている。なんのこっちゃか。

 『無いようでいて、全てを含む』ーーそれが『玄』。三十を越え、やっとその片鱗が見えた気がする。

 時や環境に流るるままに、私たちは水のように貌(かたち)を変える。丁度、私があの頃の私とは細胞も思考も愛の形も、別の生き物であるように。言うと凡庸であるが、私達は手放すことで、生ずる空白をつくる定めの生き物なんだ。

 諦めも重要。

 手放して、やっと少しは健康的な、『淋し雨(う)ない、』世界。泣けるけど健康的なのは、確かに事実だ。比較的だけど。

 そんな彼これ運動を繰り返し明滅する全ての者が、『一如(いちにょ)』なんだと仏教の世界では説くらしい。本当かどうかはしらんけど。まだ訛りが、まだ好きな癖。ちょっと掻い摘んで勉強しただけでは、この程度の理解で、ただ『全てが繋がっている』とだけ響いている。根本的に違わない、同じ本質を成しているのだ、と。だったら、本当に照と絲緒里と私は一緒で、ひと塊りを成す『みんな』なの?

 私“の”『みんな』ーー

 照は稲荷、絲緒里は恋の妹背
 ーーそれだけのはずだった。
 それはそれでしかなく。

 それでも、
 ちゃんと絲緒里には照には、
 私にとっての絲緒里、
 (ダメダメ。)
 照にとっての絲緒里、
 絲緒里にとっての照、
 (あぁやだ。
 もーゥやめよ……!)
 照にとっての絲緒里、
 絲緒里にとっての私、
 (グルグルする……)
 照にとってのワ・タ・シ!
 ちゃんと、視えて、いたの?だろうか?

 あの2人には、
 確かにあった。

 心意気なり所作なりの所以を、
 互いに見い出す
 淑とした譲り合いが
 緊張感があったことは確かだ。
 持ちつ持たれつ生じ生き、
 どんな変化にも相手を鏡と視る。
 或いは
 鏡とは全く別のものとして識(し)る。
 『客観的視点』
 私に欠けた感情が丸々
 理解出来ていたのだろうか。

 答えなんか無いさ。
 大人は言う。
 本当に答えなんか、無いんだろう、か。

 私だけが『無自性』を理解しない?
 ちゅ。
 自分に凝り固まった?
 ちゅ。
 救われない、0......
 属せない、1......
 泣くなく泣くなく泣くなく泣く
 (『ハイ、妙ちゃん、もう終わり。十分だよ。』)
 でも答えなんか、誰にも分からない。

 終われないよ……

 だって、淋し雨(う)な記憶が鳴り止まない。
 耳を塞いでも鳴り止んでくれない。
 でも、ちょっと、微笑ましいな。
 稲荷だな。
 ドラマチックな日常駆けてんな。
 実際は飲んだ暮れてるだけなのに。
 照、言ってたな。
 『一』は、全ての始まりだ、って、な。

 真夏に毛皮を纏う狐ーーその狐が、
 私のデコルテに
 真一文字を一筆啓上。
 奉り候して、
 『一』の象形の筆先は、
 熱と冷たさを同時に刻み込むように、
 微かに畝(うね)った。

 「それは天と海の交わりが、表裏一体であるように、無と一如(いちにょ)は互いを発端として生じ、切り離せることのない無限に続くものだと説く!ただの横線に、果てない浪漫が眠っているのだぞ諸君。私の細胞は今も攻防を巡らす、個々にスキームを張り巡らせる戦場だ!私の身体はこの時のなかで今この刻も朽ちる定めを、追っている!しかし。」急に眠くなった照の「しかし」が急に小さい。思い出して、可愛くなってしまう。それに反して、私はこれらのキャッチーな触れ込みに興味をそそられてしまった。みるみると、そそられとしまった。笑っちゃうよ。だって、照が『臥龍窟』の発足記念に寄付して寄越した、自らの黒柿のコーヒーテーブルに腕を突っ伏して寝そうになってる。が、「続き、」と私はその頭を揺り起こして、寝させない。ひんでぇかったな。
 途端に眠い照は、「……妙たえぇー……、」と駄々を捏ねだしたんだったね。「時間や環境によって、人は固定的な実体を持たずに変化するもんねぇ。人の心は無常だよ……無情だよ……本質的には、皆同じような心を顕す人間だあって、固執せずに人を見れば、0からも生まれる感情があるってよ。人間の有り様?なにそれ。調和?話にならん。」
 花夜人は、照の放り投げたショールマフラーを、照の横に頬杖をつく私の肩に、着流しのようにかける。いい奴だったな。今更。「なんの話しとん、いないな」と言う私に、照はそれを無造作に引っ張って、自分の方へと手繰り寄せてた。
 「だからあ、
 無垢なトキメキ感で、
 何も残っていない虚しい0な場所に、
 パッと好きって感覚で照らし出されて、
 1として全く片付かない。
 悔しいシロだよ。
 めっちゃ統一性に欠ける。
 なんて無駄な、取るに足らない感情。
 だって、この方がずっといいもん。
 一つくらい愛着のあるものを、
 後生大切にしたい。愛しすぎる……
 私は私で、あなたはあなた。」

 照は顔を上げてやんなりと笑ったら、「あなた」と言いながら私の頬をつねる。

 「本当に絲緒里さんが好きなら、
 いっぱいキッカケ仕掛けてあげるね。

 1か0かの整頓哲学をするの。
 ああ、くだらない。」

 ドキッとした。

 照は心の底からリラックスしている。彼女のリラクゼーションであるのだ。得意げに整えられた唇を、しっとりと絲緒里から噤(つぐ)む端正な横顔が、周りを気にしていない。幾重にも昔を遡る私の薄っぺらい過去だ、びっくりする。あの時の照を、八年越しにまだちょっぴり恨んでいることに、びっくりする。羽毛のぱやぱやが見える。照のトン・トンという薬指。底抜けの明るいキス。絲緒里の深い、思い出せば息の止まる、太い声で鳴った、『やめろ』の言葉。白いぱやぱやは照の胸元を離れて、「無関心」という虚空に今も消えてゆく。寒い雨のなかに。
 絲緒里はまるで私を見ていなかった。照だけが、みている。観測していた。孤独を?挙動を?手札の数を、指折り数えていただろうか。いや、なんでも。少し顎を撫でてから、深く息をして背を逸(そら)せ、障子の彼方向こうを眉を顰(ひそ)めて斜に眺める絲緒里を、飛び出る絵本にする、あの子、照。可愛い絵、とでも言いそう。……だ。

 私にとって照は錯覚アート。
 現実は小さな現実でしかないような日常が、
 日々永遠続く。
 それなのに、
 驚くほど対象物が不均衡になったり、
 目が回ったり、
 打ち首に遭ったり……照と過ごしていると、どんどん錯覚は錯覚を覚醒させる、『トリッキーな世界』に転がり込む。

 だから、私はこのお狐様みたいな風情の、やんわり悪巧み好きな、屁理屈理論捏ねこね人を誑(たぶら)かす女の子を、『稲荷』と呼んだ。一応は、ちゃんと、愛情こめて。そう呼んでいた。照の深奥の孤独を知っている三十代の私も、照はお稲荷様で正しく、お稲荷でしかなかったと、当時の感性を疑ってなどいない。

 ドキッとした。

 まさに凡(あら)ゆる含蓄を込めて、
 魔除けの神。

 ((あのですね、
 まやかしと
 かみがかりとを、
 取り違ってはいませんか?))

 誰かの聲が記憶のなかで響く。
 それと同時に、
 パラッと雪の音がして、

 雨は夏の霰(あられ)に変わっていた。いっぱいの白い金平糖が、庭先の朝顔の蔓を、驚かせる。私より二つ下の瑞々しい稲荷照は、その金平糖を食べる、女神みたいだった。酒と霰(あられ)を食べて生きているみたい。お供えには、神酒(みき)さえあれば好い。霰は、稲荷照が、「けーん……けーん……」と地の上で跳ねさえすれば、土の穴からちいさくさくたく飛び出る飛び出す。照に体温があるのは、食した霰を酒の温度で溶かしているからだろう。冷蔵庫の陰で実の所、狐は習性を顕す。稲荷はキューブの氷を、なんと。『生』で食べる。文字通り、バリンボリンとだ。しかも。両手一杯に。神様過ぎた。あの時の私には、どうしてもそう思うほか、手当たり次第術はない。

 キスを祓った絲緒里は、瞳は燈(ともしび)を召し籠みながらも、もう消え入りそうな、二柱の煙柱の眉ぱっぱ。((やめろ))と言う、太く虚勢を張るよ、な、息骨を掴もうとしているらしい。狙いを定めいているよ、な、照は膝を崩し、そのまあんま片目を細くして小首を傾げる。キュッキュッキュッ!木枯らしの、ほっそりとした白い指先をやや、そのままはにらぇ、と彼の小鼻の方へ方へと差し伸べて『、コトコトトン……!』ーーそうとでも鳴るかのように、摘んで揺らす、照だ。瞳に酒気を帯させ遊んでいた。遊んでいたんだ。そして、また、キュッキュッと唇を嘴(くちばし)にして、目を細くして、さえ咲(わら)う。くっそぅ、そんな気分で泣きたいのに、この光景に魅入ってしまう覗き見たい馬鹿にしないで。あんな女に呆れて、絲緒里は着物の袖のなかで腕を組んでるし。朱色(あか)い顔して狸寝入りだこっちは泣きたくなるよ。

 照、こんな人間が本当に存在するんだなぁ……って、やつ。しかも生身で。創り込んだ虚像の裏の設定とかではなくて。そんな奴が『臥龍窟』にはゴロゴロいた。

 例えば絲緒里。そんな彼の怒りを、理性に逆らえきれはしない、男の湿った体裁だと思っていたけれど、違う。それは彼の大きな理性が、キスをしながら背を向けていることだ。

 背を向けて、
 斜に構えて、
 不意を突いて、
 急所を突く。
 だけど、
 ちょっと、

 やさしい。
 だから、油断の隙を突かれてしまうのだ。

 でも、照は男など幾らでも足りていた。寂しさも何一つなく、体を埋めようなどともしておらず、純粋に絲緒里のことが輝くように女らしく好きで、曇りない望む心で、彼を望んでいた。その彼女を知っていたから、この男の人は、指一本くらいは触れてやる。

 その指が、天突(てんとつ)に対して耐えきれなく苦しい。凛々しい意地の、意地っ張りをそっと拾い上げ帰ったまま、絲緒里は照をあとに残して、愛し去った。だから、照も自信をシャネルピンクの唇にのせ、絲緒里を追うことなどしなかった。そのあとに残る何にも侵され得ない静謐(せいひつ)さが、私の心に長く、深く影を落として、去ることを知らない。

 あの時、私の心に絲緒里が残した感情は、きっと花夜人(かよひと)が言う「情け」だったのかもしれない。情けは不思議だ。甘い香りもあれば、時に鋭い痛みもある。それは私を傷つけることもあるけれど、時に救ってもくれる。
 花夜人の言葉が思い出される。あの言葉が、今も私の胸のどこかで、ちいさく控えめに、ちょっと不真面目に私を守る。

 「妙香(たえか)ちゃんと絲緒里くんが互いの傍の存在になるまでの準備期間、僕はずっと離さないよ。」

 稲荷神社から貰った御札は、
 未だ五、六年くらいの時を経て、
 尚も薄く輝く金平糖のお菓子と一緒に、
 長方形のオブラートの如くに薄っぺらい、
 ビニールのなかで眠っている。
 箪笥の引き出しに眠っている。
 照にとって、一秋が準備期間なら、
 もっと永い準備期間もある。
 そんな寂しい想いをさせてくれる、
 大切な雨が今日も降っている。
 しみじみと思う。

 捨て去ったのは
 私の方だった、
 と。
 それでも、
 残されたものは、
 捨て去られることを待っている。

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