【中国山地の歴史⑪】父を尋ねて1500km~「鉄山必要記事」の背景を探る
こんにちは、中国山地の歴史を調べる人、宍戸です。
今回は、たたら製鉄を調べるうえで欠かすことのできない古典「鉄山必要記事(鉄山秘書)」の著者に注目し、「鉄山必要記事」を記した時期に重なる奥州滞在について紹介したいと思います。
まずは、そもそも「鉄山必要記事」とは何かからご紹介します。「鉄山必要記事」は、たたら製鉄にまつわる材料の調達、技術、経営、言い伝えなどを網羅的に記述した書物で、江戸時代におけるたたら製鉄を知るうえで最高の古典とされています。著者は下原重仲(吉兵衛)と呼ばれる人で、1738年に生れ、自身も中国山地の伯耆国宮市村(現在の鳥取県江府町)でたたら製鉄を経営し、1821(文政4)年11月に84歳で没しました。「鉄山必要記事」は、重仲が多年にわたって書き溜めてきた内容をまとめたもので、完成したのは1784(天明4)年、重仲が47歳のころです。「鉄山必要記事」の書名は、重仲本人ではなく、重仲が著書の序文を頼んだ人によって名づけられたようで、序文には伯州日野山人の名で次のような内容が書かれています。
そして「鉄山必要記事」の最後の方には、重仲がこの書物を書こうと思った理由が書いてあります。
つまり、重仲は「鉄山必要記事」を、たたら製鉄に関わる口伝を記録するという意図を持って作成したことがわかります。記録したのは知識の喪失によって鉄山業(たたら製鉄)が衰微するのを危惧したためであり、結果として近代になり、鉄山業は衰微してしまいましたが、今日、たたら製鉄を研究するうえで欠かせない書物になっているところを考えると、人々の記憶を記録したことは非常に大きな意義があったと言うことができます。
一方で「鉄山必要記事」が完成した時期は、自身のたたら製鉄業の経営危機の時期と重なります。序文にある通り、多年の間ひそかに著述してきた内容を完成させたのは、たたら製鉄業の経営危機と関係がある可能性も排除できません。実際、経営危機のため1786(天明6)年に、たたら製鉄業を廃業したとされていますが、この経営危機は1780(安永9)年に幕府が設けた鉄山統制策である鉄座と関係し、重仲がたたら製鉄業の先行きを悲観したことが「鉄山必要記事」執筆のきっかけではないかとの指摘もあります。
そして今回の本題なのですが、重仲(吉兵衛)は、経営危機に前後して故郷を旅立ち、奥州外ヶ浜の今別村(現:青森県東津軽郡今別町)に逗留します。今別村は津軽半島の先にある津軽海峡に面した村で、いわば本州の北の果てとも言えます。重仲が何を思って本州の北の果てまで旅立ったのかはわかりませんが、13年後に重仲の息子である恵助(幼名:熊蔵)が父を探して伯州から奥州まで迎えに行き、連れて帰るまでの物語が伝えられています。私は少し前に、重仲が滞在したと思われる今別のお寺に行ってみましたので、写真とともに物語をご紹介したいと思います。(なお、重仲の年齢や事柄の年代にはやや不審な点があります。例えば、44歳の時に大坂にいて、その後諸国遍歴に出かけ、48歳のころには今別にいることになっているのにもかかわらず、鉄山必要記事の完成は47歳のころで、序文も伯州の人が書いていることなどです。もしかしたら重仲は、旅立ちの前に書物を書きあげて序文執筆者に託し、重仲が旅立った後に序文執筆者が年代を記したということなどもあったかもしれませんが、今回は検証せず深くは立ち入らないことにしたいと思います。)
「黒坂村恵助が壮年となり、親吉兵衛を捜して奥州まで旅をした終始の書付」より抜粋
以上が、重仲が奥州今別村に逗留し、息子が迎えに行くまでの顛末で、困難を乗り越えて父親を探しにいく息子の親孝行の物語として記録されています。日野郡から大坂、江戸、白石、南部を経て今別に行ったとすると、およそ半年をかけて約1500km、往復で約3000kmを徒歩で旅したことになります。この旅が文字に記録され、現在まで伝えられていることを考えても、当時の人々にとり、とても印象深い大旅行であったことは間違いありません。
文章には、息子の恵助が信心深く、不思議な導きで旅が進んでいく様子が表現されています。また、重仲は「鉄山必要記事」で膨大な記録を残すだけでなく、今別村では子供たちに手習いや学問を教えているため、博学の人であったことは間違いないのではないでしょうか。
ところで、興味深いのが、観音堂の脇にある看板です。
御堂の建立は1794(寛政5)年となっています。重仲が48歳から58歳まで今別村にいたとすると、西暦では1785年から1795年ということになりますので、御堂は重仲が今別村に滞在中で帰郷する1年前に建立されたことになります。
さらにいうと、重仲の息子は父親と再会してから1年間、今別村にいたということですので、重仲の息子である恵助が今別村に到着した年と御堂が建立された年は一致する可能性があり、恵助が今別村に来たことと、御堂の建立には何かしらの関係があるということも考えられます。一方で今別の記録では、観音像の作成を始めたのは1792(寛政3)年とのことですので、重仲が本当に観音堂に住居していたとしたら、今別滞在の初めは観音堂にいなかったことになってしまいます。
また、「西国の土を運ばせ」という表現については、本覚寺の檀家の一人だった二股村の金十郎なる者に命じて、西国三十三霊場を巡ってその土を運ばせたとありますが、重仲や恵助が西国から来たことと関連があるような気にもなります。現時点でこれ以上検証する材料がありませんので、今回はこれ以上の考察はしないでおきたいと思います。しかし、もしかしたら、重仲と恵助の旅の痕跡は今も津軽半島にひっそりと残っているのかもしれません。
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