わたしたちはともに主体的な存在として
昨日、2月29日たもとの会第2回を無事開催することができました。
それにしても間違ってないですけど、「開催」って大袈裟ですね。他の言い方ないのかしら。催す、開く、なんとなくどれもこれもぴったりこないんですよね。難しいです、言葉。
お集まりくださいました方々へはほんとに感謝しかないです。わたしと一緒に本を読んでくださって、そして感じたこと考えたことを交わし合う時間。それだけなのですけれども、表現しがたいものをその時間に頂いています。
今回は冷たい雨も降る中でしたが、7人集まっての会となりました。
1章 介助することと哲学すること――「自立ホーム」で学んだこと
読みました。
テーマは哲学の本なので、やはり難しいのですけれどもギリギリわたしでも消化できる感じがあります。わかりやすさ、伝わりやすさに、かなり配慮されての文章だと感じます。
筋ジストロフィー症を抱え生活の全てにおいて介助を必要としながらも自立生活を送っていた阿部恭嗣さんという人がいます。著者は阿部氏の介助ボランティアを大学時代に経験していました。
その自立生活も壮絶ですが、著者は介助をすることと、哲学を探求していくことを同時に行うことで生まれてくるジレンマに悩みます。
介助すること、特に身体的なケアをすること、身体を通じてのやり取りの中では、どうしても説明しにくい葛藤があります。わたしも常々答えをだすことのできない迷いに沈殿しているような気がします。
阿部氏と同じように全介助で生きていた母を見送っていたわたしは、この章を初めて読んだとき、書かれている「介助するものと介助されるものとの間に存在する『権力的な非対称性』」という言葉に立ち尽くす気持ちになったのを覚えています。
医療や福祉の現場で「尊厳」というような言葉がまさに軽々しく飛び交う中、この権力的な非対称性は見えない前提となり、介助される人が表明するニーズを本当に必要なことなのかどうなのか、などと威圧的に査定していることがどれほどあるのかということ! もちろんわたしを含めてです。
引用
介助に携わる者は「ある人間存在が他の人間存在に対して掲げる不確かな要求」を受け止め、これに聴き従うという姿勢を求められる。介助する者が当事者に成り代わって判断すること、それは介助という行為の土台を掘り崩すことにほかならない。
介助する者がある意味主体的になることが、介助される者の主体性を損なうことになる場面はかなりあります。介助される者が要求することは、ウンウン。確かに確かに、不確かなものが多い。そして判断しかねて、または介助する者の勝手な先入観をそのままにして、ぬけぬけと一方的な判断を下してしまうのです。
もしくは過剰な奉仕精神からか、介助する者が自分を押し殺し、要求要望に必死に答えてボロボロになっていくようなこともあったりします。
どちらもが損なわれす、互いに主体的な存在としてケアのやり取りを行うことが果たして可能なのか。どうしたら「聴き従う」ということができるのか。
「想像力」という言葉よく聞きます。想像力が欠如しているとかなんとか。
そういうことを言っているときにその想像力ってどういうことなのかわかって説明できる人はいるのでしょうか。
あまりにも曖昧で抽象的なのに平気で言葉を乱用しているのを反省させられます。本に書いていることをかいつまんでみます。
「考える」とはその対象と親密な関係に入ること をいう。
なるほど!
相手が人間であれば、親身になって話を聴く、行動を共にするなど、
身をもって相手と交わる、付き合うことで相手を熟知するようになる。
相手の身になって考える(その対象と親密な関係に入る)力量を想像力と呼ぶ・・・ と。
身をもって・・・ですね。
そういうことですよね!難しいけれど、ここまで説明されるとわかる気がしませんか。わたしはこのような感じでこの本から答え合わせをさせてもらっている気持ちになります。
介助の場面では自分が相手にストレスを与えないように感情のない機械のように、無色になって介助をすることに務めることがありますが、必ずしもそれは主体性を失っているのではないと思います。
「人間は身体的な存在であり、いともたやすく傷ついてしまう。」
そしてさらに「身体的存在の根底には、人間が飢え乾く存在である、常に欠如を抱えた存在であるという事実が潜んでいる。欠落を抱える者、傷つきやすい者として、『あなた』は『わたし』に応え、それを通して自己の存在を引き受けなおしていくのである。」
そう、
『あなた』は『わたし』に応え、それを通して自己の存在を引き受けなおしていくのである。
自分で言うのもなんですが、参加してくださった方は活発にご自身の中に生まれてきた思いを、リラックスした空気感の中でまた静かに交わし合えた会だったと思います。そんなレポートもまたご報告があるかもしれません(笑)
今回のおやつはぜんざい。
終わってから希望者のみ太母式のうどんを作って食べてもらいました。
太母式とはわたしが若い時に太母(たも)さんという方から教わった環境と経済にやさしい目からウロコ、シンプル簡単で合理的で美味しい料理方法です。今回は簡単な乾麺を使ったうどんでした。
いつものことですが、思いつくままに書きなぐり読みづらい文章で失礼しました。
とにかく次回も楽しみです。次回は3月28日土曜日です。
以下告知です。申込みはこちらにお願いいたします。
https://kokucheese.com/event/index/593071/
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