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最果てにキスして

「先生、えこひいきしてる。」なんて言ったら負けだと思っていた。わたしは手のかからない子どもだから、授業中立ち歩いたりしないし、宿題も毎回きちんと出すし、計算ドリルも誰よりも早く終わる。褒められなくて当たり前。いつも60点のあの子が取った80点は、わたしのいつも通りの100点よりはるかに価値があった。



「おねーちゃん。」


家に帰ると一階の和室から弟の声がする。和室には弟の介護用ベッドが置いてある。


「ただいまー。」


弟の頬に触って、痰が絡んでいないか、床ずれを起こしていないか、様子を確認する。今日はあたたかいから、機嫌も良さそう。

弟にはきっと死ぬまで父と母の介護が必要だ。私の介護は? ちょっとよくわからないな。どろどろの流動食を口の中に流し込んだり、排泄のたびにトイレに連れて行ったり、すっかり大きくなった体を抱えてお風呂に入れたり、弟を生かすために必要な一通りのことはいつしか私にもこなせるようになった。父は真面目でちょっと頑固で不器用な勤め人で、職場の信頼もあつい。弟の様子を見ながら仕事をするために自宅に持ち帰ったノートパソコンのキーボードを両手の人差し指だけで、でも慣れた手付きで素早く叩く。それとまったく同じ調子で弟の世話をする。お母さんは弟が生まれて仕事をやめた。わたしを産んだときには辞めなかったのに。お母さんはとっても優しい。優しいからよく泣く。弟が一生ベッドの上で過ごすこと、昨日は笑ってくれたのに今日は癇癪ばかり起こしていること、自分が死んだあと弟は誰が世話するのか、気に病んではよく泣く。

わたしの夢は美容師になること。でも、ただの美容師になりたいわけじゃないの。全国にロードショーされるような映画とか駅前に大きく張り出される広告のビジュアルとか誰もが目にする仕事を手がけるようなトップヘアメイクになりたいの。あるとき、そう言って地元を出ることにした。お父さんは、少し寂しそうに、でも、特に何も付け足すことなく、「頑張るんだよ。」とだけ言った。お母さんはそれまで以上に毎日よく泣き、怒りと悲しみを隠さなかった。

「あなたがいなくなって、弟は、わたしはどうなるの?」

「ごめん。」と一言告げるだけの気力もプライドもなかった。逃げるようにして出てきた東京は、そんな根性なしには当然のように冷たかった。東京は最初からすべてを手にしている人だけが活躍できる表舞台。みんなそれぞれすでに発揮したい個性があり、発表したいスタイルがあった。意地と誇りがぶつかりあってキラキラ光っていた。

一方、わたしはルーティーンを回して食い扶持を稼ぐだけ。発揮したい個性も、発表したいスタイルもなかった。当然だ。わたしがほんとうに求めたのは、家族から逃げること。いや、どんなに「いい子」を演じてもわたしが求める愛は手に入らない―—そんな「愛されない自分」と共に生きることから逃げたかっただけだったのだから。それでも一通りの技術を習得すれば、仕事は惰性でこなせるようになっていく。毎日毎日、何人もの頭・頭・頭。これはほんとうに人間の頭?

そのまま一日が終わってしまうのが怖くて、東京の夜の明かりに吸い寄せられる。朝だか夜だかわからない時間に帰って、舌が麻痺するくらい冷えた缶チューハイで最後の乾杯をするのが日課になった。


そうして気づけば、夢ははるか彼方に遠ざかっていた。

失ったのは仕事の輝きだけではなかった。わたしの全部をあげるから一瞬でも夢をみさせて、と声をかけたあの人もあっという間に消えていた。エッチだけでもしたのにね。楽しかったし、気が紛れたから仕方ないけど。

営業用に完璧に統率され洗練されたヘアメイクをアップするため開設したはずのInstagramのTLでは、地元の同級生が週末に夫と子どもとディズニーランドへ出かけて笑っている。不完全な自分と家族を抱きしめて、粛々とした平日と平凡な休日で終える一週間。そこにあるのは、わたしが逃げ出してきた退屈さ。だけど、そのかわりにわたしが手にしたものはなんだろう?呆然としたまま、今日も誰かが生きたくても生きられなかった明日を生きる。鏡の前でプロっぽく髪を巻けば、わたしも少しはマシにやれるのかな。

救われる夜もある。あの痛みを忘れた頃、おなかを空かせて冷凍庫をまさぐると、コロンと小さな頭が見える。その頭にキスしたら、キンキンに冷やしたチューハイで自分の頭を痛めつけなくてもゆるんだ気持ちで眠りにつける。そんなところじゃ寒いのに、ちゃんと産湯と一緒に下水に流してあげられなくてごめん。でも、あなただけはわたしを愛してくれたって信じられる気がして。もう少しだけ、わたしの人生に付き合って。


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