膨らむ腹は地獄の沙汰、妻を愛して走れ馬車馬、呼び笛聞いて逃げろ種馬
身重の妻がそのからだの重さをおして拵える夕ごはんは、なんだかこちらの気を重くする。そんなにがんばられたって、俺は君の献身には応えられるわけがないのだから。専業主婦の家事を賃金換算すると年収420万円になるんだって。へー。俺は外でその倍は稼いでるけど。でもそのくらい稼ぐ俺の賢い頭だからわかるのは、今時、妻に仕事とキャリアを捨てさせて育児と家事を任せる男の罪はそんなんじゃ償えないということだ。そして、その理由は俺が彼女に望んだからではない。夫婦二人で決めたからだ。
幼い頃に見た牧歌的なアニメでは食卓を囲めばみんな仲間だった。だけど、現実は同じ釜の飯を食うくらいで誰かとわかりあえるほど甘くない。むしろ食卓は互いの違いを際立たせる。作る彼女・食べる俺の間に圧倒的存在感で横たわる四人がけの分厚いダイニングテーブル。見るからに健康に良さそうな豆腐ハンバーグ、玄米、ひじき煮、なんか季節の青菜のおひたし。
「あー、おなかいっぱいでおなかが重ーい。早く出てきてくれないかなぁ。」
「焦らない。焦らない。安産第一!」
「安産第一(笑) 優しいパパだね〜」
おなかを愛おしげにさすりながら話しかけるなんてドラマの中だけだと思っていたのにすっかり板についた妻の動作にもうこの人はすっかり母親なんだと突き上げられる。
男はいつだって周回遅れだ。乳離れしてランドセル背負って小学校に出ても、あっという間に女子たちに身長を抜かされていく。第二次性徴を経てやっと図体がデカくなったと思いきや女たちはマセきっていてサッカー部の先輩ととっくにイチャついている。死に物狂いで勉強して彼女たちのヒソヒソ話に肩身を狭くする自意識過剰で貧弱な精神を抱えたまま入った大学で、向こうはとっくに人生のカウントダウンを始めていた。結婚は26歳。出産は29歳。育休は30歳まで取って40歳に向けて経験を積み上げる。「若さには賞味期限があるんだから」と詰め寄られても、こっちは締め切りなんて実感できる機会は与えられていない。そして気がつけば急き立てられるキャリア形成。同棲。子作り。多分、子育て。
うっかり声に出して、多分、なんて言ったら、無責任だの主体性がないだの他人事だのと馬鹿なアイツみたいにシバかれることくらい知っているから身を弁えることくらい器用にこなすけど、こちとら需要あっての実存なので、周回遅れはどうしようもない。当たり前に仕事が自己実現、自己実現が社会貢献。種馬と馬車馬を兼ねた人生を想定してきた。
女性は産む機械、などとほざいて馬脚を現したりしなくても、人間が機械でないと理解するには時間がかかる。需要のないところに生まれる欲求は神秘だ。「かばんが欲しい」「子どもが欲しい」とおねだりできる彼女のてらいのなさが眩しい。健康な精子ならいくらでもくれてやるけど。俺が欲しいものってなんだったんだ。可愛らしく、健康的な飯を作り、家で子どもを育てる、そういう嫁さんだったのか。
“あなたが欲しい。”
そうだ。結婚指輪を一瞥して怯みもしなかった、あの子。未来にすら目もくれなかった。うるんだ瞳。艶っぽい肌。発光してるみたいだ。思い切って手を握ったら、誰よりも強く握り返してくる。でも絶対に誰かのモノになり下がることをよしとする女ではないから、どうせ俺のモノにもなりはしない。
「お母さんが近くに住んでてよかったー。産後も安心だよね。」
「そうだね。そういえば、今日、お義母さんの好きな花園万頭の前を通ったから買ってきたよ。明日ちょっと寄って渡してくる。」
「やっぱり優しい〜。よろしくね!」
朝、玄関先で妻にキスをすると同時に、ポケットの中のスマフォが震える。日頃、妻とのキスでは感じるはずのない、なにかが喉の奥から込み上げてくる。あの子はいつだってタイミングが悪い。玄関を出て、震える手でオフにしておいたLINEの通知を開く。
「あなたが欲しい。」