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風呂場で生卵を投げたら、人生ではじめて「愛してる」と言われた

ある年のクリスマス、わたしには好きな人が2人いた。

一人は4年以上の付き合いになる長年「パートナー」。もう一人は木々の葉っぱが黄色く色づく頃に交際が始まった彼。わたしはその新しい彼へのクリスマスプレゼントを買って家に置き、浮かれた足取りでその彼のいるグループの飲み会へ向かった。

座敷の会場につくと、おやおや、彼の様子がどうやらおかしい。隣の女の子との距離がやたらと近い。

そして、今、その女の子の手を握った。



ふてくされて二次会も行かずに帰路につく。夜10時30分。家の近所のファミレスでは「パートナー」がビールを飲みながらわたしを待っている。

彼のいる席につくなり、わたしは涙をこらえきれず、テーブルに突っ伏した。

「他の女の子と、手をつないでた。」

彼は「やれやれ。」という表情でわたしが泣き止むのを待った。



わたしはポリアモリー(複数愛者)だ。ポリアモリーとは、パートナーと合意の上、複数の人と交際することがある人のことだ。わたしには4年以上交際している彼がいる。彼もわたしと同様、ポリアモリーだ。彼はわたしの他に10年近く交際している彼女がいる。わたしからみた彼女は「メタモア」という呼び方をされる。

なので、わたしたちはお互いに他に好きな人ができたとしても、別れることはほとんどない。自分以外の相手と別れてほしいと迫ることも、迫られることもない。わたしたちの愛情は排他的ではないが、個別的だ。お互いに他の誰かとの愛はわたしたちの間の愛の代わりにはならないことを知っている。わたしたちの間の愛が、他の誰かとの愛着の代わりにはならないことも知っている。例えば、子どもが2人いてどちらかへの愛がどちらかへの愛の代わりにはならないのと同じように。

だから時々、モノアモリー(単数愛)なんて大きらいだ、と思うことがある。モノアモリーはわからずやだ。愛を択一的で、代替可能なものだと考えている。モノアモリーは「他に好きな人ができた」という陳腐な理由であっさりこちらを裏切る。愛情に白黒つけたがる。なにかと「わたしとどっちが大事なの?」と迫ってくる。そんなに物事は単純ではないのに、と。わたしはまだまだ一緒にいたいし、一緒にいれるはずなのに。

もちろんモノアモリーも尊重されるべき愛のかたちだ。そうだとすれば、わたしたちは?わたしたちの愛は同じように尊重されているだろうか。

「他に好きな人がいるからいいよね。」

「俺なんていなくてもやっていけるんでしょ。」

そんな簡単な話なのだろうか、わたしの愛は?



彼はわたしが一通り泣き終わると、恐る恐る声をかけた。

「わかるよ。」

しばらく沈黙があって、彼は続けた。

「仕方ないね。彼はモノアモリーだから。」

わたしは拗ねて黙りこくった。納得ができなかった。

「そういえば、今日営業先の農園からちょっといい卵、もらってきたんだよね。」

よくわからない話にわたしは眉をひそめる。

「投げよっか。お風呂場で。掃除してあげるよ。」



寒い中、馬鹿みたいにはしゃいで家まで自転車を飛ばした。暖房をつけるのも忘れて、すぐに裸になって、お風呂場で、赤茶けた大きくて立派な卵を12個投げつけた。以前、別の恋に破れて割ったワイングラスより手応えがなくてあっけなかったけど、割れてぐちゃぐちゃに撒き散らされる卵の黄身と白身は、より失恋の気分にふさわしい気がした。

彼がお風呂場を掃除してわたしに服を着せて毛布をかぶせた。毛布の中から手を伸ばして彼にしがみついて大泣きした。もう意識なんてなくしてしまいたいと思った。

「愛してるよ。」

不意に彼が重要なことを言った。

「俺にはわかる。俺が代わりにならないって。君だけが同じことをわかってくれてた。戦友だと思ってる。愛してるよ。」

それがわたしにとっての、人生は初めての「愛してる」になった。

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