さみしさだけで死ねない僕らは
さみしさだけで死ねたらどんなに楽だろう。
さみしさを抱えて生きるのはしんどい。
しんどいのに身体はふつうに健康だったり、社会的に自分の身体を傷つけることはタブーとされていたりして、なかなか死ぬのも楽ではない。
愛し愛される人に恵まれていたとしても、ふとした瞬間にさみしくなることはある。けれども、わたしがいなくなることをその人はとてもかなしむだろうから、勝手にいなくなるのもよくない気がする。
さみしさ、とは何だろう。
辞書を引くと、そこには、「あって欲しい物がない、居て欲しい人がいない、などの理由で物足りなさやつらさ、心細さなどを覚えるさま。」と書いてある。
あってほしいものが、ない。
あってほしいものがなかったことなど、今まであっただろうか。たしかに生家にはうなるような金があったわけではないから、欲しいものを買ってもらえないこともあった。しかし、欲しいものをまったく買ってもらえないような経済事情でもなかった。親のお金で私立の高校に行き、私立の大学に行き、留学まで行かせてもらった。19歳で恋愛を始めてから、彼氏が途切れた期間はほとんどなかった。不自由な生活を送ってきたわけではないのだ。
ならば、さみしくなんてないだろう。と、わたしを納得させようとする誰かの声がする。
おまえは家庭から社会から完璧に護られ、養育された、人的資産なのだから。黙って働き、人の役に立って、恩を返せ。
その声は常に真実であった。その声が真実である限り、わたしはさみしいのだと思う。
少し前までわたしのそばから離れなかった死にたみは、さみしいなら、辛いなら、苦しいなら、今すぐ終わらせようよ、とよく申していた。死にたみというのは、死が達成されるまではグズグズいう性質のものだから、なかなか厄介だった。その感情はさみしさが埋まる可能性などこの世にあるはずがない、という絶望からきていた。
ある人と会った。その人はわたしがどういう人間で何をしているのか、一切聞かず、吟味もしなかった。多分わたしを一人の人間として、というより、なにかの現象として捉えているのだと思う。天気か何かのように。
すると、わたしを説得しようとする誰かの声が一瞬止み、それが続いた。
わたしは油断すると、すぐ「一人前の主体として尊重されてぇ」みたいなことを宣う癖があり、そしてそれは嘘ではないのだが、多分、言葉には言葉で、秩序には秩序で対抗するために身につけた手段なのだと思う。わたしはわたしの中の、自己も他者もない空白の世界を軽んじられ、拗ねて泣いていたのだ。さみしかった。
しかし、そのことに自覚が至った今、もうさみしさだけで死ぬことはできないだろう。
居所を捉えた感情に絶望することは難しい。
2021年3月21日20:35
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