浮気を「正当化」して何が悪い
先日、公開しているアドレス宛に、こんなメールを頂いた。
友達が「複数愛者は浮気の正当化」と言っていました。
実際、そうなのでしょうか……?
複数愛者として、今後どのように生きればいいか、わからなくなってきています……。
メールをくれた方には、「大事な話なので、お返事をするのに少し時間をもらうし、長くなります」と伝えている。さらに悩んだ末、返事はこのnoteに書くことにした。メールをくれた人以外にも、同じような仲間がたくさんいると思うから。
わたし自身、「ポリアモリー(複数愛)なんて、単なる浮気の正当化でしょ」というフレーズを、掃いて捨てるほど見聞きしてきた。そしてその度に、「またか」とうんざりしてきた。
ポリアモリー(複数愛)とは、当事者間の合意の下、複数の相手と性愛関係を結ぶライフスタイルのことを指す。異性愛者・同性愛者・パンセクシュアルなど、どのような相手と性的な関係性を結びたいと考えるかを示す「性的指向」という言葉がある。それに対し、ポリアモリーは「関係性についての指向」の一つである。このような仕方を実践する人は少数であるため、広い意味での性的マイノリティであるといえそうだ。
たしかにポリアモリーは、「複数の性愛関係を望む」という点では、「浮気者」のようではある。ただ、その定義にもある通り、ポリー(複数愛者)は「当事者間の合意」にこだわる。つまり、隠れて「浮気」をするのではなく、また自分の態度だけを表明して居直るのではなく、相手と話し合い、合意を作り、継続的な関係を築こうとするのである。
勘のいい方ならすぐにおわかりになるだろう。これがクソほど面倒臭い。
わたしもこれまで何度も何度も考え直したが、毎回同じ結論になる。どう考えても、隠れて浮気する方が楽だ。先日観た映画に、「先に許可を取るよりも、後で謝る方が楽だ」というセリフがあり、ほんとそうだよな!と感心してしまったものだ。(物語上、セリフの主は殺されたが……。)
デートに誘われた相手に、「わたし、彼氏がふたりいるんです」と告げれば、「すみません。今のなかったことにしてください」と尻込みされること間違いなしだ。デートした相手、セックスをした相手に、「実は彼氏orセフレ、あるいはそれに類する何かが他にもいる(あるいは他にもできる可能性が)ありまして……」と告げて、関係性が継続する相手はほとんどいない。
既存のパートナーに「他に好きな人ができて……」と明かすことは、現代の日本ではシンプルに別れ文句になることが多い。余計なカミングアウトのせいで、目の前の人参はあっさり取り上げられてしまう。
ポリーは浮気の正当化だというが、ポリーとして「事前に説明する」というルールを遵守すれば、面倒な上に、せっかくお誘いいただいた機会を逃してしまうことだってある。
それだけならまだマシだ。どれだけ丁寧に説明しようと、相手が嫉妬深かったり、相手の恋人が嫉妬深かったりすれば、恨みをかって、「刺される」危険がある。社会的に「刺される」こともあれば、物理的に「刺される」こともあるだろう。刃物などで刺されたならば、さすがに警察は動いてくれるが、世間の同情は得られない。何なら酒の席で「ざまぁみろくそマ◯コw」と爆笑されて終了である。
なので、そんな命の危険を晒すリスクや、パートナーやセフレのメンタルがブレイクするようなコミュニケーション・コストを考えれば、浮気は黙ってするのが吉だ。
にもかかわらず、ポリーがわざわざ「関係者の合意」にこだわる。それは、モノガマス(単数愛、一夫一婦的な愛)な人々と同様、わたしたちには、わたしたちなりの「倫理」があるからなのだと思う。
残念ながら、わたしたちは、わかりやすく道徳的ではない。しかし倫理的ではある。世間で「良し」とされている関係性にハマることはできなかった。とはいえ、人として「正しく」ありたいという気持ちは捨ててはいない。そして「正しく」あるための行動指針があり、正義がある。
その中の一つに「相互性」がある。「相互性」とはなにか。なにかしらの言動をしてもよい、とされる「ちゃんとした理由」は、「それを自分にだけでなく他者にも適用できるか」という観点で判断すべき、という考え方だ。簡単に言ってしまえば、自分がやられて嫌なことは相手にしない、自分ができないことは相手に強制できないし、自分がやってよいと考えることは、相手もやってよいことになるはず、ということになる。(平尾昌宏『ふだんづかいの倫理学』(晶文社)73-74頁参照)
「ポリーって自分の恋人に他の恋人ができるとき、嫉妬しないの?」と聞かれることがある。ポリーが嫉妬をしないかというと、実はまったくそうではない。多くのポリーが、自分のパートナーが他の人と関係を持ったとき、嫉妬を感じている。(深海菊絵『ポリアモリー 複数の愛を生きる』(平凡社新書)141頁)
しかし、自分もまた複数の相手に好意と関係を持つ以上、相手にそれを「するな」ということはできない。自分ができないことを、相手に強制することは、「倫理」に反するのだ。そうして、わたしたちは、倫理と感情と折り合いをつけていく。
だから、「自分は隠れて浮気をすることもあるが、相手がしていたら許せない」というは、わたしからすると、ポリアモリーの実践というよりは「モノガマスな浮気者」の典型的な発想だな、と思う。もちろんそういう人がいてもいいが、わたしはそれを選ばない。
また、ポリーには「自由」を、とりわけ「性愛の自由」を大切にしている人が非常に多い。そして「自由」を尊重するがゆえに、自分の自由のみならず、相手の自由も十二分に尊重されなければならない、と考える傾向にある。
「自由」を十分に謳歌し、「自己決定」するためには、「自己決定」の判断の前提となる「情報」が十分に与えられていなければならない。だからこそポリーは、対等な対話を通じて、感情だけでなく、情報の開示も行う。
例えば、あなたが「健康にいい水」を「自己決定」の下、1ℓ1万円で買うとする。しかし、その水がただの水道水をいい感じに高級感のあるボトルに詰めただけのもの、という情報を隠されて買ったものだとしたら、どうだろう。それは、「自由」な「自己決定」の行使とは言えないだろう。なぜなら、「実はただの水道水」という重大な「情報」が隠されていたからだ。
この考え方に基づくと、「自由」を重視するポリーは、相手が自分と交際するにあたって、互いに対等な「自由」を行使するために、十分な「情報」を与えあわなければならない、となる。例えば、既婚者であるとか、他にパートナーがいるとか、将来他にパートナーを作る可能性があるとか。相互に重要となりそうな情報は、しっかり相手に伝えなければならない、と感じる。
「相互性」と「自由の尊重」、これがわたしの倫理だ。これがあるおかげで、わたしたちの自由は、実際には相当に「秩序あるもの」となり、無軌道な性行動は大きく制限されることにもなる。
相手に、事前に、透明性を確保しながら、話し合う。これを遵守することに対する義務感は、なかなか強烈である。機会を逃してしまうと、激しい罪悪感や後ろめたさに襲われ、気もそぞろ、恋愛どころではなくなってしまうこともあるのだ。
最初の話に戻ろう。
「ポリアモリー(複数愛)なんて、単なる浮気の正当化でしょ」と簡単に言ってしまえる人は、わたしたちがこのような葛藤の末に「倫理」をお手製で作り上げているということに、想像力が至っていないように思える。
ポリアモリーはその定義上、たくさんの「一夜限り」を行うものではない。それぞれに持続的で、それでいて開かれた関係を築くのである。こうした形式も含めて「浮気」と思うのであれば、自由に言えばいい。しかし実態としては「複数の本気」が存在しているのだ。ここが、モノガマスな人が感じる、「一つの本気と、その他の浮気」という感覚とは決定的に異なっている。
人間はよく知らないものは、切り捨ててもよいものと即断しがちだ。他者は自分より愚かであると思い込み、あまつさえ「チャンスだ!」とばかりに「論破」してやろうとする。それにしても。「ポリアモリーは浮気の正当化」だなんて、手垢にもカビにもまみれている、こんな借り物のぺらっぺらな「お道徳」で罵倒されるのは、本当に腹立たしい。わたしたちの、なかなかに面倒で、慎重で、複雑で、チャレンジングで、思慮深くて、人間らしい営みが、拾い物の言葉で侮辱され、そのことで当事者が沈黙し、断念し、傷つくことなど、本来あってはならないことだ。
でも、わたしは、あるいは、今ようやく、ゆるくつながり、見えるようになり始めたわたしたちは、メールをくれたあなたの営みの尊さがわかる。あなたの、あなた自身の姿を探し、あなた自身の人生を生きながら、同時に他者と共に在ろうとする姿勢を美しいと思う。その美しさに見合う豊かな人生を歩んでいってほしい。いや。歩めるはずだ、とわたしは確信している。