体育におびえる子をなくそう!アメリカ流体育のすすめ
体育の授業や運動会。運動が苦手な子には、公開処刑の場。
発達障害の子には、運動が極端に苦手な子が多いんだよね。目と手の協調運動が苦手だったり、チームプレーで自分の役割がとっさの判断で理解できなかったり。アイコンタクトだけでの意思疎通が難しかったり…。
でも運動が苦手なのは発達障害の子に限った話じゃないよね。そんな子たちにとって体育や運動会は地獄の時間。運動が思うようにできないもどかしさ以上に、滑稽な姿を友達や観客に晒し続けなきゃいけない心の痛み。
今日のnoteのきっかけは、ツイッターのお仲間さんのツイートから。
こんな状況じゃ、体育の時間は苦痛でしかないよね…。
アスペルガー症候群の息子も例に漏れず運動が苦手だったんだけど、アメリカにきて運動大好き&体育大好きっ子になった。
そんなアメリカのとある学校のユニークな体育の取り組みを今日は紹介します。
体育の目的は、体を動かし脳を学習に最適な状態にすること
息子の通う中学校では、毎日1時間目が体育です。それは、科学的根拠に基づいたもので、朝に適度な運動をすると脳が目覚め学習が効果的になるからなんだよね。これについて詳しいことは別の機会に触れようと思うけど、よくADHDの子が落ち着きがなくなってくれば、休み時間や授業前に少し運動をすると離席がなくなり落ち着いて授業に参加できるっていうのの延長です。
運動会はありません
「適度な運動」が目的の体育は、「その子にとって適度」なことが体育の学習のゴール。だから、他の子より早く走る必要もなく、苦手な事に意に反して取り組む必要もなし。だからそれを「誰かに披露する」必要もないし「体育を通じて連帯感を高める」必要もないから、運動会はなし。誰かの為に競わななくていい。
運動が得意な子は部活や学校外のスポーツクラブの試合で実力を発揮する場があるから、敢えてそれを学校でする必要もないんだよね。
それに運動会を「感動を提供する場」にする為に、運動が苦手な子や障害のある子供たちを犠牲にする必要なんてそもそもないはずなんだよね。
運動が得意な子は学校外で輝く場があるし、運動が苦手な子を悲劇のヒロインに祭り上げる必要もない。だからあくまでStudent-centered「その子にとって大切なこと」をするのが体育の時間。
やりたいことを選べるカリキュラム
「自分にとって」適度な運動が目的だから体育は個人のニーズに合ってなきゃ意味がないよね。だから体育のクラスには選択肢がいっぱい。学期ごとに好きなクラスに変更できる。
テニス
サッカー
野球
アメフト
バスケ
マラソン
バレーボール
と言った人気スポーツはもちろん
フリスビー
キックベース
アーチェリー
ヨガ
スケボー
ダンス
と言ったレクリエーション系
そして特筆すべき選択肢は
散歩
のんびりゆっくり散策♪
これなら体育ある日の朝にお腹痛くなる子もいなくなるでしょ。
自分のペースでステップアップ
そんな自由な選択肢の中から、散歩→フリスビー→キックベースなどを経て息子が最後に選んだのは「チームスポーツ」。運動が苦手な発達障害の子にはなんとも難しい選択だなって心配したんだけど「チームスポーツ」の目的をきいて納得。
これからの人生、ティーンエイジャーの間も、大学生になっても、親になっても、誰かと集まって下手でもなんでもスポーツを楽しむ機会ってあるよね。例えばバスケコートで何気なくバスケしたり、浜辺でバレーボールしたり。そんな時に自分が余りにも下手すぎたら自分も楽しくないし周りの人もがっかりだよね。参加せず観てるだけもつまらない。
だからチームスポーツでは、そんな未来のレジャーの場で
「出来るだけ自分も周りの人も楽しめるようになる為の必要最低限なスキルとテクニックを身につけよう&ルールを知ろう」
というのが目的。でも運動が苦手な子だけでは授業が成り立たないので、そのスポーツ(例えばバスケ)が上手い子は、手加減しながらバスケを試合形式でして、運動音痴の子が取りやすいパスを出したりシュートする機会をつくるお膳立て役として参加。
運動が苦手な子は、バレーボールならサーブ、サッカーやバスケならシュートやパスを受けて出す練習。
勝つことが目的じゃない。
ただただスポーツを楽しめるようになるための楽しい体育の時間。
息子はこのチームスポーツの授業を受けて、それまで全くセンスのかけらもなかったバスケやサッカーが得意になって、高校で二部(一部は大学やプロを目指す子のみ)のいろんなスポーツ部からスカウトが来るようにまでなりました!
勝ち負けよりも大切なことを運動が得意な子も苦手な子も学べる。
それがこのアメリカ流の体育の良さ。
こんな体育ならやってみたい!っていう子、日本にもいるかな?
新型コロナウィルスの影響で休校が長引き、登校再開後のカリキュラムの見直しが行われてる今だからこそ「子供たちがそれぞれに必要なことを経験できる体育」の新しい形を模索してほしいなって思って書いた今日のnote。
体育の時間がどの子にとっても苦痛でも、恥をかく屈辱的な時間でもなく、その子がその子なりに何か得られる時間になるよう、先生方にも体育が苦手な子の視点に立って体育を見つめ直してほしいなって思います。
学び方の違う子達は、体育の時間にも「自分に合ったやり方が必要な子達」