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「子が欲しい」という親のエゴについて思うこと

頭の整理がてら、つらつらと書いてます


「自分を優先して他者を侵害する」ことへの恐怖

私は、子供を産みたいという人の「理由」に強く違和感を持ちます。それらは、「子が欲しい」という完全なる親のエゴだからです。
私は、「自分の利益のために他人を害する」という状況は避けるべきだと思っています。例えば、「自分は強い」と思いたいがためにいじめを行うこと、自分がお金が欲しいがために強盗を行うこと…など。
つまり、自分の利益のために他者を侵害することは絶対に許されないと思っています。

一方で私は、「自分の利益と、他者の利益が一致していること」を大切にします。たとえば「自分が楽に移動したいがためにタクシー運転手に運転させること」はよいと思います。なぜなら、そのタクシー運転手には賃金が支払われているからです。

この文脈で考えると、子を産むことは前者だと考えています。つまり、親の「子が欲しい」という利益のために、これから産まれてくる子は苦痛を強いられてしまうと考えます。

子を産むことは、WIN-WINの関係ではない

ここで、子を産むことを後者であると仮定します。つまり、親は子が欲しいと思い、子は生まれてくることによって生きる喜びを得るので、自分の利益と他者の利益は一致している、とします。

しかし、そこには「不確実さ」があります。生まれてきた子は、生きる喜びを得られるかどうかわからないのです。いくら親が「幸せにする」と決意しても、それが難しいことはよく言われているとおりです。
タクシーにたとえると、子はタクシー運転手です。親はこう言います。「とりあえず車を走らせてみよう。賃金は払うかもしれないし、払わないかもしれない。それで君が不利益を被っても、私は責任をとれない」
上記のように考えると、やはり出産において自分の利益と他社の利益は一致しないのではないでしょうか。

「崇高な考えだね、でもそれって実践できてるの?」

ここまで論じると、こんな指摘をされるのではと思っています。
「自分を優先して他者を侵害する」ことを避けるといっても、そんなことは不可能だ。あなたはチョコレートを食べないのか?時計やスマホはもたないのか?その商品は、望まぬ労働者たちの血と涙で染まっているというのに。

そういわれると私は、「フェアトレード商品を買うように極力努めている」と答えることしかできません。人間の社会というのは、どうしても格差が生まれてしまう、奇妙で複雑で、動物的なものであることも理解しているつもりです。

でもだからこそ言いたいのです。生まれてこなければ、格差に苦しむこともなかったし、人間がいなかったら、格差で苦しむ人をつくることもなかったと。

さいごに

「お互いの利益が一致する」ことについて熱弁しましたが、
そんな理想の状態なんてめったにないことも知っているつもりです。
この世界は、利益の合致では語れないことであふれています。親は子が一人前になるまで様々なことを我慢しなければなりませんし、友人が熱を出したら食料を届けてあげます。意味の分からない理由で説教をしてくる上司の話もきいてあげなければなりませんし、動けなくなった親の面倒をみてあげます。
なぜこれらが成り立っているのかというと、それは「愛」なのだと思います。もしくは、「愛」がない場合にも対応できるように、社会は規範を設けているのだと思います。

だから「愛」は素敵なのだ、などと話しを続けたいところですが、愛について語れるほど愛についてわかっていないので、やめておきます。


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