認知の仕組みと私が将来やりたいこと
こんにちは。ほろ酔いを通り越した、なかだいらです。
このnoteでは長男ナオ、次男リョウが発達障害の診断を受けた流れ、その後バリ島で育て直しを行った体験の記録を、本人の許可を取ったうえでつづっていきます。
バリ島へ行ったのが2009年。まずはそれまでの日記を出していきます。#051
2007/10/1「認知の仕組みと私が将来やりたいこと」
今年も何もしないまま過ぎ去ってしまうのかなー。
久々の思考停止日でPCの前に座ってやっていることと言えば貧乏ゆすりくらい。
去年の10月は徳島への飛行機チケットを取り間違って痛い目に合ってた。
一昨年の10月は妊娠が分かって実感が湧いてきた頃。
何もしないまま日々が過ぎて行くといつも思っているけれど、振り返ると色々やっているのかも。
私が「何もしないまま日々が過ぎて行く」と思わないような充実した日々ってどんななんだろうなー。
仕事がうまく回って、発達心理の授業をして、日々の気づきや出来事を書いて、いまをちゃんと生きている毎日。
それができたらいいのになー。仕事をうまく回すために何年かかっているんだろう。
そういえば最近すごくガーンと来た言葉。
「言語の脳科学~脳はどのようにことばを生みだすか~」酒井邦嘉著より。
認知というのは、「認め」「知る」と書くように、物を見たり音を聞いたりして、知識をもとに何であるかわかることである。
昔から自分や他人の物の考え方の違いにすっごく興味があって、私ならこうするのにどうして他人はこうしないんだろう、とか、普通はこうするでしょう、ということが必ずしも普通じゃないんだということがここ数年で分かって来たんだけれど、この認知の過程の違いが他人との差になるんだろうな、と再確認できた文章。
上の文章で言うと、
(1)物の見かた音の聞こえ方など情報を取り入れる過程
(2)知識をもとに何であるかわかる過程
この2つが百人百様で、大多数が使用している過程を「普通」というんだろうと。少数のひとの方法が「間違っている」のではなくて、大多数のひとのやり方とは「違う」ってだけ。長男の書字の問題はこの(1)か(2)が一般的な方法ではないんだと思う。くよくよと同じ悩みを繰り返すひとは(2)で使用する「知識」にネガティブなデータばかりが入っているんだと思う。自分らしく生きていないと思うひとは(2)の「知識」が親や友人、テレビ、雑誌などから借りたものばかりで、実感とズレがあるんだと思う。
あるひとが何かに困っていたり、悩んでいたりした場合、「こうするといいよ」とアドバイスしたり「普通はこうよ」と諭したりするより、どんな認知をしているかを知る方が大事だということ。
大抵の場合、本人はどんな認知をしているか意識したことがないので、こういうときに第三者が必要なんだろう。
私はこの認知の(1)を整理するお手伝いと、(2)のところで使う「知識」の中に、本人にとって必要な知識と不必要な知識があると「気づく」ことや、不必要なものを「手放す」ことに関わりたいと思ってる。
この作業の判断を他人に任せて指示にしたがう行為は「直す」という行為で私はちょっと違うと思ってる。
この作業を自発的に行い、例え困難でも自ら取り組んでいく過程が「癒される」ということ。誰かが癒してくれるのではなく、癒しとは自らの内側で起こること。カウンセラーはただ鏡の役割で寄り添ってそこにいるだけで良いと思うのです。
つづく
次回は「日々の雑記」をアップします。
■当時をふりかえって補足 2021.10.19
うんうん、大まかには方向性を間違っていないな、と思う今日。
あとは言語かするだけかなーって思います。