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自分が決めた年齢で生きる

私の頭の中に居座っているもやもやの中には、「年齢」というもののせいで悩みに発展してしまっているものがあるように感じる。

「年齢」には産まれてから1年ごとに増えていく年齢(暦年齢)だけではなく、いくつかの年齢があるということについて詳しく解説されている動画があった。

街で見かける小さな子供連れのお母さんが私よりも若い人ばかりだと感じるとき、もう時間切れのような、追い詰められた気持ちになるのは「暦年齢」と「生物学的年齢」があるから。

また、10代、20代くらいのカップルを見て「楽しそうねぇ…うらやましいわ」なんてため息をついたりするのは、ピュアなときめきでキャッキャウフフしてていいのはそれくらいの年齢まで…なんていう価値観を私が持っているからで「社会的年齢」と関係していそう。

また、会社の後輩に能力面で負けたと感じたときや、メディアで20代くらいですごい結果を出している人を見たとき、「私はこの歳でこれくらいの結果しか出せていない。これが私の限界なのかな。」と感じたり。

子供のころは素敵な人を見たら「未来の私」だと思って見ていた。けれども、だんだんと「自分には決して到達できない姿」として目に映るようになってきた。

「もう向こう見ずにチャレンジしていい年齢じゃない」とか
「今から取り組んだとして結果が出るの何年後なの?」とか
「ただ興味があるというだけで時間やお金をかけていい年齢じゃないでしょ?」
「道を間違えたら戻ってる時間がないじゃない」とか
「寄り道してる時間がないでしょ」とかいうセルフトークを取り除いたら、もっと気持ちが楽に、もっと色々なことができそうに感じるんじゃないかなと思う。

誰かを見たときに、自分の年齢より上なのか下なのかをとっさに見て、落ちこんだりホッとしたりなんて、ばかばかしいからマジでやめたい。

もちろん、出産には生物学的な年齢が関係してくるし、寿命が来たら死ぬ運命だし、時間の制約があるのは確かなのだけれど。

こちらのエッセイに「たまには年齢を忘れてみる」というアイデアが紹介されていた。

年を重ねるごとに得体の知れない何かに追われているような気がするのは、自分だけなのだろうか?
そこで、年齢による焦りを少しでも減らそうと、自分の公称年齢をさば読むことにした。いや、さばを読むだけじゃなく、実際に若いと思い込むのだ。
(中略)
一体何歳ぐらいなら、興味優先でやりたいことにチャレンジしても許されるだろうか?

『あやうく一生懸命生きるところだった』ハ・ワン

私も真似してやってみて(まだ誰かに年齢を聞かれたときにしれっと答えるなんてことはできないけれど)、「単にごまかしてるだけじゃん」という気持ちの一方で、確かに気持ちが楽になる気がした。

焦って何かすぐに結果を得なくちゃという気持ちではなく、じっくりと自分を育てていこうというようなき心もちになれるから、これはなかなか効果がある方法だと思う。

そしてもっと欲を言えば、それすらも越えて、自分のありのままの年齢のまま「今の自分が一番最高」と言えて、自由に何でもできる人になれたらと思う。

親戚のおばちゃんで、会うたびに「若いっていいわねぁ~。今が一番楽しい時期よね~。」という人がいて、学生のころはそれが嫌だった。
当時は自分のことは今よりずっと大嫌いで、精神的にぐちゃぐちゃで、自分を取り巻く環境がいいとは全く思えず、「今が一番いいでしょ?」と言われたらあとは不幸になるだけじゃん、と思って。でも、今はあのおばちゃんの気持ちがよくわかる。

ただ、自分の年齢を否定すると、自分より若い年齢の人達に、歳をとる希望をなくさせてしまうとも思うから。

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