
通勤途中、2回も腕時計を落とした件
1週間に2度も、腕時計を落としてしまいました。ところが、2度とも無事に拾ってもらえて、今は私の手元にあります。拾ってくれた人には、共通点がありました。さて、どんな人が拾ってくれたのでしょう。
落とすまで
突然ですが、腕時計ってずっとつけていられます?私は割とつけたり外したりしてしまう方です。愛用している腕時計は2つ、ランニング用のものと、オフィス用。ランニング用のものをそのまま会社にしていってしまうこともあるのですが、今回落としたのは後者。その日も出掛けに時計時計!と、その辺に置いてたのを掴んでリュックのポケットに入れて、飛び出しました。
千代田線ホームにて
割と混雑した女性専用車両に飛び乗り、ポケットをあさってワイヤレスイヤホンをつけてラジオ聴きながらスマホチェック。乗り換えのとき、今何時か確認しようとしたとき、時計をつけていないことに気づきました。またポケットをあさって、つかんだ気がしたのですが、ホームを急足で移動してたらなんだか左腕がスースーする。何気なく振り返ると、ホームの地面にしゃがんでわたしの腕時計を拾う中学生らしき女の子の姿が目に入ってきました。
すかさず近寄り、すみません!それ、私落としました…!というと、彼女はすっと差し出してくれました。「ありがとうございます!」というと、何事もなかったかのように普段の通学ルートに戻って行きました。
東西線ホームにて
それから数日後。
大手町で乗り換えて、東西線ホームの定位置の号車前で電車の到着を待っている間、黄色い線の内側を通勤通学客がどんどん移動していきます。その時もスマホから何気なく視線を上に上げると、ホームの地面にしゃがんで見覚えのある腕時計を拾う高校生らしい男の子の姿が目に入りました。
あれ?いつのまにか落とした?と、思うこと数秒、とにかく男の子に近づこうとしましたが、人の波に邪魔されてうまく追いかけらません。男の子は、拾い上げた時計を左手の平の上に乗せたまま(手袋つけてないけど、まるで鑑識に回す証拠物品のように)、少し足元に迷いを感じる様子ながらもどんどん人の波に乗って前へ進んでいきます。
ようやく通路からホームが広くなったところで追いつき、トントンと彼の背中をたたきました。
「すみません、その時計、私が落としました…」というと、左手のひらに乗せた腕時計をすっと差し出しました。
「ありがとうございます!」というと
彼は何事もなかったかのように踵を返して歩き出すのでした。
2人の共通点
拾ってくれたのはいずれも大人ではなく、どこかの制服に身を包んだ中高生。そして、2人とも私と視線を合わさずに過ぎ去りました。大人なら、お礼をいったときに一瞬でも顔を見る気がします。
彼らはおそらく明日、目の前に私が現れても、自分が時計を拾ってあげた人だと気づかないでしょう。それでも、拾ってくれる、という行為ができる、そのギャップがとても興味深く印象に残りました。同じ時間にかなり近いルートで通学している自分の娘は、こんな風に落ちている他人の腕時計を拾うことが出来るだろうか?と、好奇心の赴くままに会社に向かいながら、こんなことを考えはじめました。
素直なこころ
ものが落ちているのが目に入ったら、まず拾ってみる。それを拾うとどうなる、という邪な考えを挟まずに拾う。これは、素直な心の持ち主だからできる気がします。誰のかわからないものが、道ばたに落ちている。毎日至る所に消毒液が置かれているこのご時世に、まして朝の1番忙しい時間帯に、すっと腰を屈めてそれを拾える行為。何も考えない単細胞(拾ってもらっておきながら、、言い方)なのか、いや、だってそこに落ちてるから、と素直に拾えること。よくよく考えるとやっぱりすごいと思ってしまいます。
時間の余裕
きっと彼らもそれぞれに、通学ルートに沿って決められた時間までに登校しなければならなかったはず。拾ってしまったことで、駅員さんに届けたり、取得場所を伝えたりする時間を考えたら、拾っている場合ではない、と見て見ぬふり、という選択肢はないのか?今どきの中高生、そんなにゆったり登校できるのか?遅刻しちゃう!とお弁当引ったくって靴を突っかけて出て行く中学生の娘とだいぶ違う、落ち着いた雰囲気。。彼らはきっと、何があっても定刻には席についていそうと勝手に想像してしまいます。
道徳心
冒頭に述べた、素直にモノを拾ってみるって、やっぱり、自分がそれを持ち帰ろうという目的なければ、他人のためにしてあげる行為だと思います。そういう道徳心は、幼少期から家庭で少しずつ育まれる環境も大きいだろうし、同時に、学校での教育も影響しているのだろうか、、と試しに文部科学省のHPから、学習指導要領「生きる力」の中身をちょっと覗いてみました。
指導にあたっての方針や目標の解説をたどっていくと、日本国憲法=>教育基本法=>だんだんブレイクダウン(雑ですが、略)」の中で恐らく私が恩恵を受けた部分は
主として人との関わりに関すること
[思いやり,感謝] 思いやりの心をもって人と接するとともに,家族などの支えや多くの人々の
善意により日々の生活や現在の自分があることに感謝し,進んでそれに応え,人間愛の精神を深めること。
[礼儀]
礼儀の意義を理解し,時と場に応じた適切な言動をとること。
こちらを体現してもらったわけです。道徳の時間って昔は遊べるというかリラックス時間くらいに思っていたけれど、少しずつの積み重ねでこういう学びが行動に移していける人間を作り上げるのであれば、それは目的を達成しているといえるかもしれません。
コミュニケーションが苦手
しかしながら同時に、上記の引用の後半部分「礼儀の意義を理解し,時と場に応じた適切な言動をとる」適切な言動は、大人の対応は仕切れない未熟さというか、例えば「どういたしまして」とスマートに笑顔で返す、ようなところまではできていないところも共通点。海外ならティーンエイジャーも普通にニコっ笑ってnot at allとかいってきそうな気がするのですが、なかなか対面で言葉を発するやりとり(しかも完全なる見知らぬ他人と)に慣れていないのかもしれません。
下方目線
落ちている物を拾うわけなので、当然目線は下にいってたと思います。実際に意識して歩いてみて思ったのですが、自分だと視線はほぼ、進行方向の目線の高さ数メートル先を見ていて、あまり足下数メートル以内の落下物に気がつかないようです。未来ある中高生、背中を丸めて下を見て歩いているのか?とちょっと心配にもなりましたが、それは歩き方の個人差かもしれません。でもとにかく、彼らの視線の低さにより私の時計は目に留めてもらえて、その彼らの行動に、私は未来を上向きに捉えることができました。
未来は明るい
そもそも時計を落としてしまう注意散漫さを反省するべきなのは言うまでもありません。ただ、ソーシャルディスタンスをとり、先行きが見えない中で、数秒のコミュニケーションを通じて、私の住んでいる国はこんな若者が支えてくれているのだと明るい気持ちになりました。オリンピックを通じてグローバルスタンダードを考える最中、高価な時計ではないですが、プレミアムな体験付きの高値をつけ直して大事にしようと思いました。(おわり)