『RRR』で最も大事なシーン

>一部の強い女性だけが男性にくってかかれる世界じゃなく誰もが平等な権利を有する社会への変革

#RRR はこの点においても先駆的な作品だったと思う。ジェニーも明晰だが超人的な能力はない。でもこの映画では普通の女性が活躍するのだ。ナートゥでは一丸となってラーマとビームを応援するように。

#RRR ではマジョリティーは白人=英国人の男性に限られている。白人でも女性は劣位、有色人種と同じ「白人男性以下」の存在なのである。総督夫人でさえ夫の許し、或いは不在なしには何もできない。その無力感を一瞬で解放したのがナートゥなのだ。

#RRR 何度も見る内に分かってくる。これは支配者(当時は英国人男性)に対する全てのマイノリティーの反逆の映画なのだと。ナートゥのシーンではその場にいる白人女性、招待客のみならず楽団員まで含めての全員が、ラーマとビームを応援していた。嫌みな侮辱に対して優雅かつ優美に反旗を翻した二人に。

もちろん楽団のドラマーを筆頭に有色人種の男性達も、常に偉そうに振る舞っている白人男性に一泡吹かせる機会を心の底から喜んでいた(描写はあまりないけど)。 一人でも物申せる立場のジェニーを敢えて外した事には意味がある。彼女だけでなくその場全てのマイノリティの気持ちを二人は代弁したのだ。

あのナートゥ・ナートゥのシーンこそ #RRR の心髄である。武力ではなく、舞踏でマジョリティに立ち向かった勇気と気概こそが。誰もがそれに共感できるから、映画の中ではその場のマイノリティ全員が、シネコンでは観客が(気分的に)立ち上がり、一緒に踊り、白人男性の鼻を明かして共に笑ったのだ。

あの場面でナートゥを踊った白人女性達は、男性のリードなしには一人でダンスさえできない立場だった。それが当たり前と思い特に反発さえ感じていなかったかもしれない。でもラーマが「ナートゥをご存じか」とビームと軽やかに故郷のダンスを始めた時、彼女達は自由な息吹を感じたのだ。

それは白人男性達への痛烈なしっぺ返しだ。あろうことかインド人の男達に誘われて反逆のダンスを踊るのだから。
多分現実にはそんな事は起きないだろう。彼女達も白人だから同胞の男性に恥をかかせはしないだろうし、当然人種差別もあるはずだ。
だが #RRR はそれがまるで当然のように観客に見せたのだ。

ジェニーがジェイクを殴ったわけではない。特別な女性がチカラを持って男達に、それを通じて周囲の女性達に言い聞かせたのではないのだ。
白人女性達は自発的に楽しげにラーマとビームのダンスを受け入れ、一緒に踊り、そして白人男性達と対等に勝負した。
これがどれだけ凄いことか分かるだろうか。

例えば王という強い立場の者に導かれるのではなく、民達が自分で気づいて立ち上がるという理想をラージャマウリ監督は描いているのだ。バーフバリでも名もなき民達がアマレンドラの苦境に率先して寄り添っているではないか? マウリ監督が本当に描きたいのは王ではない。自ら立ち上がる民達の方なのだ。

英国支配下のインドで民族舞踊のナートゥなど実際に踊れるわけがない。高貴な身分の白人女性がインド人のムスリムに惹かれるなんてあり得ない。 でも、それを、あたかも可能なように、それどころか実際にその場で起こっているかのように見せてしまえるのがマウリマジックだ。

#RRR を見て私達は心を揺さぶられなかったか?
暴力は振るえないけれど、ダンスで反骨精神を示せるならなんぼでも踊ってやるわいと、彼女達と一緒の気持ちにならなかったか?
インドの現政権下でその真意を隠しながらもマウリ作品は常に私達を鼓舞してくる。草の根の民にもできることはあるのだと。

私達普通の女性はワンダーウーマンにはなれない。 ジェニーやシータにだってなれないだろう。あの勇気や信頼の強さはなかなか真似できないものだもの。 でもあの日のパーティでラーマとビームと一緒に踊り声援を送ることはできる。特別な存在ではなくても、自由を求めて立ち上がることはできるのだ。まだ今のところ、この日本でも。


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