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ジガルタンダ・ダブルX 芸術は蠱

以前『ジガルタンダ』 を見た時、主役のカールティクは恐らく監督自身の投影なのだろうと思った。すなわち映画を撮るためなら何でもやる男である。あのラストは彼が名声を手に入れて変わったわけではない。あれは元々手段を選ばない困った男なのだ、と監督は自嘲も込めてカールティクを描いているのだと思う。

それと同時に最後にあのシーンを入れることで物語を「セードゥの改心物語」ではなく、ヒネリとパンチの効いた異色作、と観客に思わせることもできるわけだ。お宝様ことヴィジャイ・セードゥパティさんの起用も生きるしね。

要するにスッバラージ監督は一筋縄ではいかない監督なのである。

その一筋縄でいかない監督が『ジガルタンダ・ダブルX 』で描きたかったものは何か。
いやそりゃ芸術に選ばれた男達の話なんだけどさ、彼らが芸術のためにどこまでできるか、というのが実は主眼なんじゃないのかな、と私は思う。

あの映画で語られているのは「支配者よ、何故だ?」であるし、それを観客に印象づけるために多大な犠牲と壮烈なシーザーの最後があるわけだけど……それは劇中劇、レイsirがシーザー主演で撮った映画のテーマなわけだ。

無論それを本作のテーマと考えてもいい。あのシーンは創作ではなく事実として撮られている設定だし。レイsirの映画を見て打ち壊しに走る怒れるインドの民衆に自分を重ねるのはごく普通のことだと思う。


でも私は4回見て(英語字幕2回、日本語字幕2回)、別の考え方もできるなと思った。

先のツイートで書いたように、これはシネマに魅入られた男と男の愛の映画。一人が主演、一人が撮影で、ほとんど蜜月のような時を過ごしていた。

しかし映画ならいつか結末はつけねばならない。

そしてその結末にもってこいの事実が向こうから飛び込んで来たのだ。

シーザーは、物語を描ける男として、自分の物語にこれ以上のクライマックスはないと考えたのでは? どうせ助からない命ならば、最高に悲劇的で美しい結末のために華と散るのもまた一興と思ったのでは? 

もちろんそこにはレイsirという信頼できる撮影監督がいなければ始まらない。

レイsirならば、身に及ぶ危険を冒しても、シーザーを、おのれのミューズ(男だけど)をとり続けずにはいられないから。一人で逃げるという発想さえもたないだろう(それができるなら、シーザーをそもそも助けたりしない)。

芸術に選ばれるということは、自分の死さえも顧みず、映画として傑作になる方法を選択するということだ。フィルムに残ることで死を永遠の生に変え、人々の心をも動かす不朽の名作として残り続けるように。

シーザーは太鼓を叩きながら、レイsirがまだ近くで撮影していることに気づき振り向いて逃げろと言う。その気持ちに嘘はなかったはずだ。直後に後ろからラトナ警視に撃たれるから。

その瞬間までシーザーを撮影し続けずにはいられなかったレイsirこそ、真に選ばれし者。もう、どうしようもなく、彼をとり続けるしかない程、シーザーの美に心酔していたのだと、私は思う。それで社会を変えようとは、その時のレイsirはたぶん考えてなかった。シーザーの姿を最後までフィルムに焼き付けるためにだけ、彼はそこにいたのだ。

芸術というのは残酷なものだ。
そしてその残酷さが甘いのだ。

ただの社会派映画なら、観客はこんなに、ものに憑かれたようにならない。見終わって「感動した」と言ってあれこれ論評するだろう。

だが『ジガルタンダ・ダブルX』はそうではない。見た人はほぼ一様に「すごいものを見た」と言う。自分が見て感じたことを素直に言葉にできないからだ。

「すごい」のは自分の死と引き替えに映画に最高のクライマックスを与えるシーザーであり、それを撮影し続けるレイsirの、芸術に憑かれた二人の姿そのもの。

他のシェッターニも、像も、政治問題も、すべては二人で作り上げるクライマックスのためにある。

これだけの重い社会問題を、クライマックスを盛り上げるためだけに使っているから、見終わったあと何も言えなくなるのではないか?

だって観客が最後に見せられるのはいつもどおりの復讐シーン。それは単に私刑で、全然社会に問題を投げかけていないではないか。まあ観客はすっとするけれど。

確かに問題提起はある。でもそれ以上に監督が描きたかったのは、芸術にとらわれた人間が如何に自分本位か、なのかもしれない。それでも、そんな監督が撮った映画であっても、芸術として優れていれば人は見る。そして心に残る。何故なら芸術の残酷な甘さは癖になるからである。


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