血と引き換えに、得るもの
わたしが初めて献血に行ったのは、16歳になった月のある日だった。
その頃、友人関係も親との関係も先生との関係も、ぜんぶぜんぶぐちゃぐちゃで、わたしは何のために息をしているのか、わからなくなっていた。
放課後、廊下においてある椅子にすわって窓の外をみつめながら、途方に暮れていた。わたしが生きる意味って何だろう。思春期特有のあれ、です。
どうしても自己肯定感がひくめなわたしは、「他者に必要とされること」の価値がほかの人と比較して、高い。
無条件に、絶対的に、人の役に立てること。人の役にたって、自分を満たせること。
それが、献血だった。
幼いころ、何度か母の献血に付き合って献血センターに行ったことがある。その時はタダでお菓子を食べられるところ、くらいにしか思っていなかったけれど。それに、わたしは小さいころから何故だか病院も注射もだいすきだった。
だから、献血に対するハードルはひくかったように思う。
その日、献血センターに行って200ml献血をした。(16・17歳の小娘からは、200mlしか取れないのである。)18歳になった数日後には400ml献血も、成分献血もした。
3年間で、計12回。どこの献血ルームに行っても「まだ若いのに、こんなに献血してくれてるのね」と言われる。ああ、満たされる。承認欲求が満たされる。
なんだか、こうやって書くと「メンヘラ」みたいだけど、手首切ったりするより100億倍効率的だと思う。だれも損しない。それに意識していないだけで、社会貢献で自分を満たすのって、みんなやっていると思う。ボランティア、募金、などなど。突き詰めていくと、どれも自己満足のためにやっているんだと思う。
それに、「自分を高める」という観点で献血について語ると、何となく血を抜かれることによって、新しい血がどんどん作られるような感覚におちいる。新しい自分がつくられていくような気がする。「リセット」という言葉が一番しっくりくる。実際どうだかはわからないけども。
そして、最近の献血ルームはお洒落で洗練されている。わたしにとって献血ルームに行くのは、スタバに行く感覚とちょっと似ている。すこし休んでいくかあ、って。お菓子も飲み物も漫画もあるし。けんけつちゃん(日本赤十字社のキャラくらー)もかわいいし。
さてと
今日も、これから献血に行こうと思う。
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