嘘いつわりなく。②
はい。ヘッダーの写真は、相変わらずウソです。笑
😎「はてさて…」
😅「Part 2…」
😎「うん。準備はいいか?」
🙂「はい」
😎「前回、じぶんと対話をせずに、物事をそのまま受け入れることは、じぶんを欺くことだ、と言えると結論を出したな」
🙂「うん」
😎「今日は、この部分をもっと掘り下げてみよう。」
🙂「うん」
😎「…………💭」
😑「あっ………!!これについて書けって?!」
😎「そうだ」
😫「えーーーーーっ!?!」
😎「すまんかった。まだ早かったな。フライングだった。」
😇「いやー、えー、うーん、謝ることじゃないけどさ、いまインスピレーションで送ってくれた言葉については、まだ上手く言語化する自信がないのよ……うーん。やってみて平気かなぁ……」
😎「大丈夫だ。やってみなさい」
😑「……。よめまてん。」
😎「調べなさい」
🙂「はい。
人から与えられた、言葉やもの。
これらをそのまま盲信してしまうと、本質がどんどん見えなくなっていきます。
本質を吟味することなく、これがよい、あれがよいと行動することは、
「よいことをしたつもり」
に過ぎないのです。
「よいことをしたつもり」というのは、
単なる思い込みであることも多いのです。
そして、自分は知っているのだ、とひとたび思い込んでしまうと、なかなか厄介です。
知ったつもりになって、それ以上、知ろうとしなくなってしまうからです。
受け売りの言葉を用いて、他人に正義を振りかざしてしまうことだって、あるかもしれません。
ですから、
本質をつかむことなく「これが答えなのだ」と言い切り、思い込んでしまうと…
じぶんを欺くだけでなく…
じぶんを傷つけるだけでなく…
結局、自力で答えを導き出せないままになってしまうのです。」
😎「いいぞ。さて、ここで、↑の禅語にもとるわけだ」
😌「はい。
あなたは、何を信じて生きていますか?
他人の言葉や在り方が、生き方の指針になっていませんか?
いつの間にか形成された倫理観が、生き方の指針になっていませんか?
じぶんという存在を、他者に委ねてしまった瞬間から、あなたのしあわせは、外側の出来事に左右されることとなってしまいます。
これは、非常に不安定な状態です。
たとえば、問題が解決した時とか、足りない何かが手に入った時とか……
そのようなときにしか、しあわせを感じられなくなってしまうからです。
だって、問題を問題とするのも、足りないことを足りないとするのも、他者との比較あってこそ。
ですから。
そんなふうに、他者に幸せをゆだねず、
いま、ここで、幸せを感じようとするには。」
😎「仏に逢うては、仏を殺せ。」
☺️「そういうことです」
😎「なるほど。では、どうやって殺せばよいだろうか?」
😊「他者が出した答えが、なぜ、そのような答えになったのかを考えることです。そして、じぶんと対話しながら吟味し、実践してみることに尽きます。」
😎「どうして、実践することが良いと考えるのだ?」
😊「見つけられるからです。じぶんの、答えを」
😎「ほう」
🙂「真理も正義も、信じなくていいのです。
神も仏も聖霊も、信じなくていい。
信じられるものを探して、こうらしい、ああらしいと、右往左往しなくていいのです。
それよりもまず、自分自身の中にある、幼子のような、ゆるぎない幸せな気持ちを見つけること。
つくるのではなく、見つけること。
見つけたら、それを大事に愛でること。
こうすることで、じぶんなりの答えを出せますし、
なにより、じぶんが救われるのです」
😎「よく書けたな。じぶんが救われると、他者も救われる。そんな愛の連鎖で、この世はもっとよくしていける。
変容の世紀。
ともに、参ろう。」