視聴率全てではないが… 心に届く番組なのに
ドラマ「西遊記」のエンディングテーマ「ガンダーラ」を歌って1978年大ブレイクした、ライトでフュージョンなロックグループ「ゴダイゴ」。
「ガンダーラ」は若者世代に支持され、2か月にわたって歌番組でトップ10入りした。
他にも「ビューティフル・ネーム」「銀河鉄道999」など大ヒットを飛ばしたゴダイゴ。
ゴダイゴを召喚して視聴率3%と及ばず
しかし彼らが出演して、視聴率3パーセントに終わった番組があった。
その番組は「「クリスマス・スペシャル」=クリスマスと世界の孤児たち=」
それでも放映の価値があったが、教会の体質を考えさせられる
それでも、ゴダイゴまで召喚して、多大な犠牲を払ってテレビ番組を放映した値打ちはあったのではないか、というのが私のこの記事の主旨である。
加えて、その番組放映の「主体」であった福音派系プロテスタント系諸教会の、メディアというものへの考え方や、体質を考えさせられたことを書きたい。
その元記事は、週刊「クリスチャン新聞」1981年1月18日号第1面の3番目、及び2月1日号第1面3番目に載っているもの。
超教派のテレビ伝道協力会の提供でテレビ局が制作
さて、番組放映自体の放映は1980年12月24日のクリスマスイブ。しかも夜6時半から8時までというゴールデンタイムであった。
番組名は「クリスマス・スペシャル」。第1部を「クリスマスと世界の孤児たち」(30分)とし、第2部に「ゴダイゴ・イン・クリスマス・チャリティー・コンサート」(1時間)を持ってきた。
チャンネルは「東京12チャンネル」(1981年からテレビ東京)。
テレビ界異例の、キリスト教とのコラボ企画
これは、関東圏のプロテスタント教会が協力して、それまでも単発で番組を放映してきた、全国テレビ伝道協力会・関東テレビ伝道協力会による提供と制作協力。
そして、東京12チャンネルが制作を担当した。テレビ局の「制作」というのは、同協力会の番組にとっては異例のことで(おそらく)最初で最後であった。
(妄想するに日本テレビ系列の「24時間テレビ 「愛は地球を救う」」開始が1978年だから、東京12チャンネルとしては同じようなコンセプト、テイストの番組を狙ったのかもしれない)
スティーブ・フォックスがクリスチャンだというご縁で
ゴダイゴ出演は、メンバーでベーチストのスティーブ・フォックスさんがクリスチャンになった「ご縁」でのことであろう。
代々木第二体育館から「実況」放送という力の入れようで、2500人収容可能の会場に2000人の中高生らが集まった。
1981年1月18日号によると、その告知は、事前にポスター、チラシなどを用い、地域教会を通して、第1部、2部セットになった1時間半の番組「クリスマス・スペシャル」としてPRされた。
一方、当日の一般紙テレビ告知欄では、一つの番組の第1部、第2部としてではなく、「別々の番組」として告知された。
だから教会からのPRには触れず、当日新聞のテレビ欄だけを通して情報を得た圧倒的多数の人々にとっては、大人気のゴダイゴのコンサート生中継番組は当日知るところとなり、その結果、代々木第二体育館まで駆けつけた子らもあっただろう。
3%という低さの理由を指摘できないクリスチャン新聞
さて、この「3%」という数字は、記事をよく読むと第1部、2部合わせた1時間半全部を通しての平均視聴率である。
当時「東京12チャンネル」の年間通しての、同じ時間帯の平均視聴率は6パーセント。その数字にすら及ばなかったことになる。テレビ業界的には惨敗の企画ということになろうか。
第1部にもゴダイゴが顔を出し、第2部はゴダイゴのコンサートの生放送であったというのにである。
クリスチャン新聞に伝え方は、「視聴率は3%と低調」と脇見出しをつけるものとなっている。
しかし、同新聞の記事をよく読んでも、低視聴率の理由については分析されていない。
テレビ局の「せい」なのか?
一方、事前に諸教会を通して人々に告知したことと、当日一般紙のテレビ欄に載った告知の「食い違い」だけを問題にしている。
すなわち、テレビ伝道協力会が作ったポスター、チラシを用い、地域諸教会が行った事前告知の中では、第1部、第2部が一体となったものとしての「クリスマス・スペシャル」として知らされたが、新聞テレビ欄では、1部と2部がばらばらに、別々の番組として告知されたということをぼやいている。
加えてクリスチャン新聞としては、第1部の「クリスマス・メッセージに関しては、羽鳥明師が奉仕(伝道説教であろう)している様子が30秒ほど放送された」に「とどまった」と評論している。
もっと牧師の伝道説教の部分が長くあって欲しかったということであろう。
そして繰り返しになるが、1部、2部通しの視聴率が低かった理由についての分析はなく、ただ、地域諸教会による告知と、当日一般紙ラ・テ欄による告知の「食い違い」だけを問題にし、「混乱されるかたちになった」「教会側の意識とのスレ違いをみせていた」とぼやいてみせているわけである。
テレビ局側の視点は欠落
ここまで書いて、私が考えさせられるのは、教界及びその専門媒体としてのクリスチャン新聞には、教界サイドから見て「テレビ局側に」意識の違いがあることを問題視しているが、テレビ局にとってこの出来事は何であったか、という視点が全く記事には抜けているということだ。
その割には「視聴率3%と低調」と脇見出しまで立てているのはどういう理由・意図なのだろうか?
テレビを使えば、もっと多くの人が見てくれた「はずではないか」、という意識が透けて見える気が私はする。
それなのに、テレビ局の側が「スレ違い」を起こしたり、牧師の説教の部分が短かったりして、それで低視聴率だったのだとでも言いたげな感じである。
しかし、落ち着いてよく考えてみれば、「スレ違い」があろうがなかろうが、平均視聴率は第2部ゴダイゴのコンサートを含んだものであり、それでいて3パーセントに留まったという事実に着目すべきだろう。うがった見方をすれば、ゴダイゴの部分は、もっと数字が高かったにもかかわらず、第1部が数字の足を引っ張ったのかもしれない。
結論的に言えば視聴率については、事前の、地域諸教会による世間への告知が、結果的には及ばなかったという反省点であるべきだろう。
神戸のキリスト教ラジオ番組との対比
実は、この記事がクリスチャン新聞に出た直後の、1981年2月15日に「伝道ラジ番早朝移行に「待った」」という記事が載った。
これは神戸のラジオ関西から朝6時10分放送されていた「ルーテルアワー『心に光を』」が高聴取率を保っていたところ、ラジオ局がその時間に、世俗的に「受ける」番組を入れたいと、キリスト教番組に早朝時間帯への移動を求めるという出来事を報じたものである。
そのことに対し神戸の福音派系諸教会は、ラジオ関西社長宛に、その番組が自分の人生にとってどんなに大事かを記し、現在の時間帯を守ってい欲しいという嘆願のハガキを送るキャンペーンを実行した。そうやって、伝道ラジオ番組早朝移行に「待った」を掛けたのである。
こういうラジオ局の政策は、テレビ東京のキリスト教番組の数字の結果を見て、視聴率(聴取率)キープのためには、キリスト教(界)との関わりを持つ番組は不利なので、それは隅に追いやって行こうという影響を受けたものかもしれない。
せっかくの好機をどう受け止め、どう活用するか
提供・制作協力を行った全国テレビ伝道協力会・関東テレビ伝道協力会は、こんにちの、キリスト教定期テレビ伝道番組「ライフ・ライン」の重要な母体になるものであるが、ゴダイゴが出たクリスマス・スペシャル特番を、テレビ局の方で制作してくれたということは、21世紀の今日から見て、大きな事であったと私は思う(現在そのようなかたちの、提供がキリスト教界で制作はテレビ局という番組はない。教界制作か、あるいは局がキリスト教にまつわる番組を作ったとしても、キリスト教界とは全く関係なしに作るか)。
想像するにテレビ局の思惑としては、大人気グループゴダイゴのメンバーの一人がクリスチャンであるが故に、後発・弱小テレビ局にもかかわらずそのコンサートの特番を組むチャンスができ、数字が取れると読んだのであろう。
しかしテレビ局の側から考えれば、キリスト教会と「組んだ」のでは、ゴダイゴを召喚して、この数字しか取れないという結果だったのではないだろうか?
その3パーセントという結果を、東京12チャンネルとしてはテレビ伝道協力会ないしはクリスチャン新聞に伝えたので、クリ新記事になったわけだが、テレビ局側が伝えた際の意図としては「もっとがんばって、もっと“上手に”告知して欲しかった」というものであったのではないだろうか(1部と2部がバラバラに、別々の番組として新聞ラテ欄に載ったのも、「このままではゴダイゴでたたき出せるだろう数字を『第1部』で喰われることになる」というテレビ局の危機感であり、それを回避したい戦略だった気がする)。
公共性音痴の福音派プロテスタントの体質露呈
あるいはもっとうがった見方をすれば、クリスチャン新聞としては東京12チャンネル側の「気持ち」はよく分かるのだが、読者である諸教会、特に牧師方の受け止め(そして自紙への支持をするかどうか)を考えると、「教会側の告知が足りなかった」という指摘を書くわけにも行かず、しかし「3%」という数字に触れないわけにもいかず、何とも「生煮え」の記事となった、という推測も成り立つ。
私はどうも時代的には、クリスチャン新聞がテレビ局の意図に気がつかなかったのと、諸教会がテレビ局サイドの意向などに全く無頓着であることと両方である気がする(検証するだけの材料がまだ良くそろっていないのでここではあくまで仮説を述べるに留める)。
テレビ局にとってありがたくないパートナー
もしそうだとしたら、テレビ局にとっては日本のキリスト教会は、そんなにありがたいパートナーとは言えないということが言えるだろう。
教界側からテレビ局に企画を持ち込んで(「ゴダイゴのコンサートが放映できますよ!」というような)、それにテレビ局側が乗って、という事態は、今のところ、「もう起こらない」ということのように思う。
すなわち私が他の記事にも書いているように、ここにも日本の戦後プロテスタント教界の「公共性音痴」が露呈していると思われてならない。
でも、やっぱり放送して良かった。けれども……
一方、クリスチャン新聞1981年2月1日号の記事は、視聴率のことには全く触れず、しかし、この番組を放映して非常によかったと捉えている。
テレビで番組を聴取した中高生からの反応を伝えているのである。
国際協力や福祉の分野への夢抱く若者を捉えた番組だが、彼らが「行きたい」教会は可視化しない
クリスチャン新聞記事はまず、放映1か月弱で、テレビ告知された新約聖書贈呈への申し込みが280人の視聴者からあり、そのほとんどが中高生で、「このテレビ番組は青少年の心を強く捉えている」としている。
続いて、聴取者の生の声がテレビ伝道協力会に伝わって来た具体的内容として、まず、国外の孤児たちのために働く若者の姿を伝えるという「第1部」の内容について、自分も国際協力や福祉の働きに進みたいという熱い声があったことをクリスチャン新聞は活字にしている。
「もう一回、教会に行ってみたい」との声さえ
続いて、「聖書を読んでみたい」「以前、教会学校に通っていたが中断していたが、これを機に再び教会に行きたい」という「率直な気持ち」を現した中高生が多かったという。
そして、反応あった聴取者の居住地域、男女別、年齢別の統計を記す。新約聖書を送って欲しいとの申込数は総数280人となっている。
聖書を手に入れたいの声も多数
そして、「一方、代々木の……体育館で実況放送された『ゴダイゴ・イン・クリスマス』に集まった会衆(リアルの参加者)から」は354人の新約聖書の申し込みがあり、そのうち中高生が圧倒的に多く254人と伝えている。
テレビ見た人を教会に結びつける? 自分の体質を改善する方が先では
記事の結びは、テレビ伝道協力会の菊池事務局長による次のようなコメントとなっている。
菊池氏は、多くの中高生の心を捉えた番組であったことを述べると共に、「このことで考えさせられたのは教会のフォローアップの姿勢です」「この中高生たちをどのようにして教会に結びつけるのか」が課題とし、「テレビ伝道を通して人々を教会に結びつける、その明確なプログラム作りを急いでいる」
「マイ教会」主義?自分が得しないなら関係ない、の体質?
ここで私が感じるのは、クリスチャン新聞が、自分の読者から受けていると感じているプレッシャーである。それはテレビ「伝道」で興味を持った人たちが、直接的に(自分の)教会に来なければ意味がない(自分には関係ない)という意識が起こすプレッシャーである。
そして、テレビ伝道協力会の事務局長としては「教会のフォローアップの“姿勢”」を「考えさせられた」と言わざるを得ない。そこにあるものは何であろうか?
聴取者が将来、実際に、国際協力の働きに進もうが、福祉の分野に進もうが、教会の「教勢」には関係ない。しかしクリスチャン新聞としては、番組を通してそういうビジョンを得た若者たちがいるという大きな可能性に満ちた出来事を第一に指摘し、その上で「聖書を手に入れたい」と並んで「教会に再び行きたい」との声が聞けたことを指摘する。
ところが、テレビ伝道番組を見て、直接的に教会に来る人々がもっと多く起こされないと納得いかない、とでもいうようなプレッシャーが感じられ、それは、「そうでないならもうテレビ伝道には協力しないぞ」とでもいうような姿勢にすら私には感じられてしまう。
そういう姿勢の地域教会に、将来、国際協力や福祉の分野での働きを志すような青少年が魅力を感じるのか?という思いがよぎる。諸教会の側が「マイ教会」主義というか、狭量な考えしかないのに、そういう世界をも変えるような大きな理想を抱く人たちの役に立つようなものを提供できるのだろうか? そんな思いが湧いて来てしまう。
教会に来ていて、国際協力や福祉事業のネットワークにアクセスできるか?
教会に来ていれば自ずから、国際協力や福祉の分野の全国的、世界的ネットワークにアクセスすることができ、事実、教会自体でそういう事柄が取り組まれているなら、彼らは教会に足を踏み入れて、そういう実践の原動力や根拠となっているキリスト教信仰にまで関心を寄せることがあり得るかもしれない。
そのような“姿勢”であるプロテスタント教会が決して少ないわけではない。
しかし、大きなネットワークを意識したり、信徒がどんな風に社会・世界に貢献するかに刺激を与えたり助けたりするわけもなく、自分の教会に来て、信徒になる人の数が増えるだけを求めているような「感じ」の教会も少なからずあるということに頭を抱えた「悲鳴」のように、菊池事務局長のコメントやクリスチャン新聞のこの記事は読めてしまうのである。
先輩たちの築いたキリスト教の好イメージはあるが
戦前から、クリスチャンの先輩たちが築いてきた実績にうえに、国際協力や福祉の分野に貢献してきたキリスト教のイメージはあるわけだし、そのことを踏まえてテレビ局の側が番組まで作ってくれた。そして、そういう貢献の裏付けとして聖書だとかがあるのではないかと思われている、ということさえ数字によって裏付けられた。
しかしそういう聴取者の身近に、自分が自ずと足を向けたい教会が見えない。
一方、ただただ「自分の教会に人よ来い来い」という体質の教会はあるが、テレビで言っていたようなことに関心のある若者は行かない。
その狭間を埋めるものは何なのであろうか?と考えさせられる。
私は一言で言って、日本の教会は公共性の事柄に弱い、その体質を改善すべし、と言いたい。
いかなテレビを使って、人気グループゴダイゴまで動員しても、それで自動的に、教会に足を運んでくれ、信者となってくれる人が起こされるわけではない。
そうではなく、社会や世界に対して自分が役に立ちたいと思っているような人々が自ずと足を向けるような教会の姿勢に、自らが体質変革していかないといけないということだろう。
自己保存だけでなく社会や世界に目を向けた教会の体質を
どんなに小さな教会であっても、そこのメンバーが社会に貢献している(それがどんな分野であろうと、また小さなものであっても)ということが大事にされ、尊重されていることが伝わって来、そういうことを助け励ます教会の営みなのだと伝わってくるならば、社会や世界に貢献したいという若者たちの助けになる可能性は大いにあるのではないだろうか?
逆に、自教会の教勢だけに汲々とし、自己保存だけに目を向けているなら、何の魅力も感じないだろう。
テレビのできる部分と、そこまではフォローできない本質的部分
テレビの放映を通して、聖書やキリスト教や教会といったことを「バック」にして、若者を感動させるような国際協力や福祉の働きといったものがあるのだと確実にアピールできた。そういう点では、少ない視聴率とはいえ、大きな成果である。
一方、そういう層の人々を自然に受け止められる体質で、センスの良い、風に乗れる教会の受け皿がたくさんある、という感じでもない、という実情を反映したクリスチャン新聞記事の悩ましさがあるように感じられてならない。