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2022年5月の読書

更新をサボっていたら6月も中盤を過ぎていた。冊数が全てではないが10冊読んでいたらしい。

一発屋芸人列伝

レイザーラモンHG、スギちゃんといったいわゆる「一発屋」芸人の売れた後を描く一冊。まず驚かされるのは芸人の芸を褒める筆致だ。ジョイマンのラップについては「安易に見えるが全く脈絡もない言葉を組み合わせて駄洒落にならないようにしているのは高度」と褒めているし、スギちゃんのワイルド話芸は実は上質なスダンダップコメディなのだと解題する。芸人目線で芸の高度さを解説しつつも、自らはコスプレキャラ芸でウケている、という悲哀もある。

2021年のM-1グランプリで塙宣之がオズワルドを褒めるのに使った「畳一枚でできる話芸」への憧憬を出しつつも、一発屋芸人の「畳一枚では成立しない芸」の矜恃も描く。スキルは凄いのに、ベースは自虐。このバランス感覚と、著者の持つユーモアが合わさって非常に面白い。このノリが好きな人は冠番組でもある『髭男爵 山田ルイ53世のルネッサンスラジオ』を聴いて欲しい。

かつて一時代を築いた一発屋たちへの好感度はより増すことだろう。クリープハイプ・尾崎世界観による解説も素晴らしい。

(読んだふりしたけど)ぶっちゃけよく分からん、あの名作小説を面白く読む方法

「名作を楽しめないのは自分に教養がないからでは……」中学生や高校生の頃、文豪の作品を手に取ってそう思った人は流し読みでいいので読んで欲しい。わからなくて当然なのだ。

第一部では総論的に小説の読み方っぽいものを紹介し、第二部では実際に様々な小説を解題してみせる。紹介されていた小説で自分が読んだことのあるものは『三体』『雪国』『吾輩は猫である』『金閣寺』くらいなのだが、三体以外は面白さが全く分からなかった。『ドグラ・マグラ』は訳が分からなくて途中で挫折している。

逆に『三体』についてはSF読みと一般文芸読みで観点が全く異なりそうだな、というのが分かる。この著者は第三部で頻出する光速まわりのギミックで興奮しないだろうな、と思うが、それで良いのである。読み方は自由だし、他人の読み方を参考にしても良い。むしろ古典はそうすべきだ、というのは今後の読書に取り入れたい。といっても文芸以外の古典をあたるときは信頼できる先生が書いた解説の新書を読むことが多いから、そのメソッドを文芸にも適用すれば良いのだ。

また、分からない小説は分からなくて良いというのも安心した。その例として夏目漱石の『門』が引き合いに出される。

巻末で種明かしがされるが、こういった解読の技法というのは大学院で文学研究をする際に仕込まれる技法の一部なのだそうだ。そこで思うこととしては、大学院で仕込まれるメソッド的な部分はもう少しオープンになっても良いのではなかろうか。メソッドがオープンになったところで研究という営為には没頭が必要なのだから、研究者の優位というのは揺らがないと思うのだが。

人生は、運よりも実力よりも「勘違いさせる力」で決まっている

最初に読んだときはまだ『ファスト&スロー』を読んでいなかった。『ファスト&スロー』をはじめとした行動経済学の本や認知バイアスの本を読んでからもう一度読むと、内容をコンパクトにまとめつつ徹底的に実用に倒した本だな、と感じる。

本書のユニークな点は「人々が自分に対して持っている、自分に都合の良い錯覚」を錯覚資産として定義したことだろう。都合の良い錯覚というのは「大企業にいたのだから優秀なのだろう」とか「これだけのPVを出したのだからいい記事なんだろう」みたいな、よくよく考えると因果関係はないものの直感的には正しい感覚だ。336Pでも述べられているが、錯覚資産自体が次の錯覚資産や実力を作り出すための元手になっているので、「錯覚資本」と言った方が適切だとは思う。

ちょうど『21世紀の資本』を読んで感じたこととして、本書でいう「錯覚資本」と「実力」はRとgの関係とアナロジーだな、と感じた。錯覚資本Rは高い収益率を誇る。資本が大きくなればより高い資本収益率となる。実力gはほぼ線形に伸びる。行き着く先は残酷なまでの格差である。ゆえに最近は錯覚資本で先行逃げ切りを狙う人が増えているように感じるが、一定以上の教養がある人間は何かしらの経路でバイアス周りの話を知っているため、実力の伴わない錯覚資本強者はある程度の場所で止まっているように見える。ひろゆきなんてまさにその典型だろう。

正直なことを言えば、自分は錯覚資本を意図的に使って成功したいとはあまり思わない。(エンジニアとして生きていくのに向こう2〜3年は困らない錯覚資本を得ているからかもしれない)

だから本書に限らず心理学の知識は専ら防衛に用いるようにしている。防衛できる人が増えれば錯覚資本「のみ」の人の増長をある程度は防げるのではなかろうか。

ヒキコモリ漂流記

通学中に大便を漏らしたことをきっかけに、名門中高一貫校に通っていた「神童」は引きこもるようになった。引きこもった少年は逃げるように上京し、極貧生活を続けた後にコスプレキャラ芸人「髭男爵」の貴族としてブレイクすることになる。コンビの芸人で、ネタを書くほうが書く文章は基本的に面白い。オードリー・若林正恭も、南海キャンディーズ・山里亮太も面白い文章を書く。生々しくも、どこか笑えてしまう筆致は流石の一言だ。

男爵ほどではないが人生がうまくいっていなかった時期が長い人間としては、共感できる描写には事欠かない。

僕は父と、いや両親と、「公的な」付き合いしかしてこなかったことに気付く。変な話だが、心底腹を割って、家族として話したことがなかった。プライベートの付き合いを親とできていなかった。

ヒキコモリ漂流記 p115

不倫がバレて左遷された父親の転勤を機に、島で父と暮らしている時を振り返って出るこの描写。虐待があるわけではないし、なんなら表面上は平穏だがコミュニケーションがひたすらうまくいっていない機能不全家族の雰囲気をよく表した一文だと思う。機能不全家族において、家庭内コミュニケーションは「公」なのだ。だから家庭外でもその雰囲気を引きずって、勝手にしんどくなって、社交嫌いになる。「私」のロールモデルがないから、他人と親密になることに多大な障害も抱える。男爵が時折ラジオでも見せる社交嫌いは「キャラ」ではあろうが、こういう下地があってのキャラだから説得力がある。

引きこもりを契機に、「まとも」とされる人生から大きく外れてしまった男爵は「人生が余った」という感慨を持つ。まだ若いのに、と思う人も多いだろうが、大きな挫折というのは人生へのモチベーションを容易に失わせる。

たとえば様々な挫折を抱えた少女たちが合唱を通して再生していく宮下奈都の青春小説『よろこびの歌』でも、16歳にして「余生」を送る少女が描かれている。『ヒキコモリ漂流記』を読みながら、私は肩を壊した元ソフトボール選手の話を思い出していた。

翌日になって腫れと痛みは増した。病院に行ったときには手遅れだった。肩は壊れていた。私の人生もそこで壊れた

宮下奈都『よろこびの歌』

高校時代にメンタルの平衡を崩した時の私も、この「余生」感を味わっていた。余生を生きていると自分の人生が軽くなって、真剣に生きるなんて馬鹿らしくてやってられなくなる。

「人生が余った」などと思って生活している人間と、その人なりの能力の中で、一個一個、大事に積み重ねてきた人間とではまったく違う。そういう人にとっては、自分の人生とは、それはそれは惜しいものだろう。決して、雑には扱えないのである。
(中略)
30対0で負けてる試合だ。誰が真剣にやれるか。(強調引用者)

山田ルイ53世『ヒキコモリ漂流記』p148-149

現実は小説とは違う。肩を壊したソフトボール選手は合唱をきっかけに再生できても、中学校をドロップアウトした青年はなかなか再生できない。男爵は娘ができてようやく「時間が足りない」という感覚を得られたらしいが、染み付いた強迫観念には苦労している様子が見てとれる。

人は無意識に解決を求める。しかし男爵は解決できていない。両親とは未だにギクシャクしているし、下の娘には自分が一発屋であることをカミングアウトできていない。(上の娘には最近ようやくカミングアウトした) それでも売れていて、なんとかなっている。

こっちのほうが教訓的ではないか。男爵がことあるごとに言う「キラキラしなくてもいい」というフレーズは、まさに男爵が体現していることだ。自治体や公的機関から講演のオファーが絶えない理由がよくわかる。

火星の人(上下)

家で映画を観る習慣がないので、スクリーンで見逃してしまったオデッセイは見ていない。しかし『プロジェクト・ヘイル・メアリー』が面白かったので、アンディ・ウィアー作品を読むことにした。

『プロジェクト・ヘイル・メアリー』と同じく、窮地での創意工夫が光るが、これはトム・ソーヤー以来(もしかした以前から?)続くアメリカ文学の伝統と言って良いかもしれない。小説の感想を書くの苦手だな私。

将棋の子

1995年度下期の三段リーグで劇的な昇段を決めた中座真の裏で、4人の奨励会員が年齢制限で姿を消している。そのなかの一人が後に編入試験を経てプロ入りする瀬川晶司なのだが、本書の出版当時はまだ瀬川はプロ入りしていない。著者の大崎にとっては「消えた」者なのだ。

『聖の青春』が村山聖への鎮魂歌だとするならば、『将棋の子』は年齢や才能の壁を越えられなかった奨励会員たちへの応援歌だ。夢破れ、北海道で極貧生活を送るようになった成田英二に会いに行く大崎が、成田を軸に様々な奨励会員のことを思い出す。羽生世代によって変わってしまった将棋界のなかで、記録すらされなかった奨励会員たちの苦闘を描く筆致はどこか優しい。

大崎善生という人は記録文学が好きなのだろう。ノンフィクションが好きな人間としては、「入り込み」すぎなのではないかと思う描写も多い。だからダメだというわけではない。高木俊朗の『インパール』だって「入り込んだ」作品だが、だからといって作品の価値が毀損されるわけではないのだが、大崎善生の入り込み方はあまり好きではない。これは好悪の問題なので、ダメな人は『聖の青春』と同じく厳しそうだなと感じた。

一門 “冴えん師匠"がなぜ強い棋士を育てられたのか?

村山聖の師匠としても知られる森信雄は、棋士として華やかな実績を残した人物ではない。棋戦優勝は新人王戦の1回のみ。順位戦での昇級は一度もなく、竜王戦も最高は5組。しかし、プロになった弟子の多さでは群を抜いている。

弟子の証言を通して「なぜ」を問うのがこの一冊。多くのプロ棋士がまず競技者であることを重視し、見込みのある者しか弟子に取らないのに対して、森は本人が希望すれば基本的に弟子に取るというのは要素として大きいだろう。

では、なぜ森は弟子をたくさん取り、親身になれるのだろうか。そこに対して、森の「勝負根性」の不足は見出せる。何がなんでも相手を負かせてやろうという勝負師ではないから、他人を真剣に思うことができる。内弟子も経験し、ひどく怒られた経験もある山崎隆之は「それだけ人に怒れるということは、他人に対して熱を込められるということです」と指摘する。

単に「弟子を多く取る」だけでなく、人を思えるからこそ多くの弟子が育つのだろうと感じた。

平家物語 犬王の巻

映画『犬王』の底本となっている今作。実在したが実像は明らかになっていない能楽師、犬王の一生を語る。特筆すべきはそのスピード感。疾走感のある文体で、短い文章ながら豊かな情景が伝わってくる。剣の達人が最小限の動きで相手を斬るように、古川日出夫は最小限の文章で本質を抉ってくる。

呪いによって醜く生まれた犬王は、芸を極めることで醜さを克服していく。生まれを「ガチャ」とする世の中において、極めることで生まれの不利を覆すことができるのだ、という主張に読める。愛されなくても、呪われていても、一人の友さえいればものごとを極め、知られ、救われうるのであると。その犬王だって近江田楽の一門の生まれじゃないかというのはそうなのだけど。

社会人10年目の壁を乗り越える仕事のコツ〈若手でもベテランでもない中堅社員の教科書〉

1年に1冊くらいはこういう「本当にサラリーマンのためにしか書かれていない本」を読む。社会人(と言いつつ実際はサラリーマンを指すことが多いが)10年目というのはキャリア思春期だという定義はなるほど。だから思春期の後悔を思い出して行動してみよう、というのはなるほどといった感。

人事考課を気にしないほうが仕事が面白いとか、理と情のバランスとか、経験があれば「あぁ、そうだよね」となるが、良い上司や環境に恵まれなかった人は初めて知るような考え方も多いだろう。しかし『独学大全』と同じく、ある程度できる人は既に体得している点が多いはずだ。「なんとなく」いろんな思想を持ってはいても、誰かに正当性を言ってもらわないと不安な人は一読しても良さそうだ。他人の評価をアテにしていない人は一瞥で良い。あるいは一瞥の必要もないかもしれない。

知っている人、環境に恵まれた人にとっての「当たり前」は環境に恵まれない人にとっての福音となることがある。そういう意味では、「まぁそうだよね」という事実が並んでいるだけの本があることは大事なのかもしれない。

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