見出し画像

10月に読んだ本

noteでの仕事にも慣れ、10月は(9月から読み進めていたものも含めて)多くの本を読むことができた。9冊読んでいたのだからけっこういいペースである。

ビッグデータを支える技術 ——ラップトップ1台で学ぶデータ基盤のしくみ

データ基盤を触るようになったので、概略を掴むために読んだ。要素技術については断片的な知識しかなかったので、「なぜParquetで保存するのか」「なぜデータレイクとデータマートに分けるのか」「なぜ時系列でパーティショニングするのか」といった点について、なんとなくの理解しかなかったところに体系的な知識が入ってくるので良かった。

1章~2章ではビッグデータの概略が語られ、3章以降が比較的個々の技術に寄った解説がされる。どれも教科書的な記述で手を動かすのは最終章のみであるため『ラップトップ1台で学ぶデータ基盤のしくみ』という題には若干の偽りを感じるが、これから技術選定を行う人にも、データ基盤開発に急遽ジョインする人にも理論面での道案内をしてくれる一冊である。

実践面は次に紹介する『AWSではじめるデータレイク』で学ぶのが良いだろう。

AWSではじめるデータレイク: クラウドによる統合型データリポジトリ構築入門

『ビッグデータを支える技術』が理論を提供する本であれば、こちらは実践を提供する本である。SparkやHadoopを自前で運用するのは難しく、ビジネス要求からすれば本質ではない。本質はデータ解析である。であれば、AWSのマネージドサービスを利用するほうが良い。

ハンズオンは基礎編と応用編に分かれている。基礎編ではQuickSight, Redshift, Athena, Glue を取り扱うが、QuickSightとRedshiftはこれまで業務で縁がなかったためハンズオンで大いに学ぶことができた。AthenaとGlueは業務で少しやればこのハンズオン以上の知識が既に入っている、というようなレベル感だ。

応用編はログ分析の基盤を作るハンズオンでかなり重量級である。やり抜けば即実戦投入とはいかなくても、ログ分析周りの技術に知見がない状態から脱し、自社での応用を考えるところまではいけるだろう。

スイッチ! 〔新版〕― 「変われない」を変える方法

「どうせ変わらない」と思ったことは誰にでもあるだろう。「どうせ社会は変わらない」のような壮大な諦めではない。ダイエットや禁酒、運動といった自分のことですら何度も失敗した経験のある人がほとんどだろう。『スイッチ!』は自分と周りを変えるための知見を紹介する一冊である。

表紙に描かれている象を見ればピンと来る人もいるかもしれないが、この象は本能(システム1)と理性(システム2)についてのジョナサン・ハイトの比喩に由来している。心理学の再現性危機が叫ばれる昨今であるが、二重過程理論自体は否定されるべきものではないだろう。

本書の主張は以下の二つに集約される。

  • 象使い=理性は消耗する。象=本能に訴えかけなければ、人も自分も変わらない

  • 象=本能には単純で、明確で、具体的なメッセージを送らねばならない

他の記述に関してはどこかで聞いたことのあるようなものも多いが、本書の面白いところは比喩にある。「システム1」と「システム2」では無味乾燥だが、「象」と「象使い」だと力の差は分かりやすい。同じような形で、ドゥエックの固定的知能観、拡張的知能観は「こちこちマインドセット」「しなやかマインドセット」と表現される。こういった記述は象に訴えかけるもので、分かりやすさを優先した一般書ならではといった感じだ。

ジェームズ・クリアー式 複利で伸びる1つの習慣

習慣の強力さが注目されるようになって久しい。書店に行けば習慣化にまつわる本はいくらでもあるし、私自身も何度か様々な習慣化に挑み、挫折してきた。そういう経緯もありあまり期待しないで読んでみたのだが、結果からいうと非常に役立っている。

原題には「複利」という言葉はない。Atomic Habitである。本文中では「最小習慣」と訳されているが、ニュアンスとしては「これ以上分けられない」という意味を含む。「これ以上分けられない」習慣を積み重ねることで大きな成果を生み出そう、というのが本書のポイントだ。これだけだと『小さな習慣』と大して変わらなさそうだが、中身は大きく異なる。

まず、結果を目標にしてはならないということが説かれる。これは重要な指摘なのだが、敗者も結果を目標にしているのだから、結果を目標にするのは意味がないというのである。確かに、ほとんどの高校球児は甲子園を目指すが、甲子園に出られるのは一握りの球児だ。

結果を目標にしてはならない理由はもう一つある。結果を達成してしまったらやる意味を失ってしまうのだ。私自身、スパルタンレースという障害物レースを目標にトレーニングを重ねていた時期があったが、コロナ禍でレースがなくなったことでモチベーションを一気に失ってしまったことがある。だからこそ、「こういう人になる」という目標を立てるといい。たとえば「マラソンを完走する」を目標にするのではなく、「ランナーになる」を目標にする。そうすればフルマラソンを完走しても走り続けることができる。この考え方は類書ではあまり紹介されておらず、自分の悩みとのマッチしていたので、最近の目標設定では「こういう人になりたい」を採用している。

ではそもそも、習慣とは何だろうか。本書では「経験から学んだ心のショートカット」とされる。脳内物質の観点からいえば、ドーパミン主導のフィードバックループである。きっかけ、欲求、反応、報酬の4要素のフィードバックループを回すことで定着する。

  1. きっかけ -> 始める時ははっきりさせる / 辞める時は見えないようにする

  2. 欲求 -> 始める時は魅力的にする / 辞めるときはつまらなくする

  3. 反応 -> 始めるときは易しくする / 辞めるときは難しくする

  4. 報酬 -> 始めるときは満足できるものにする / 辞めるときは満足できなくする

たとえば何かを始めたいならば、「AしたらBする」というようなトリガーを作る。大事なのは、人間はデジタルではなくアナログな存在だということである。たとえば「X時になったら」というのはトリガーとして良くない。「夕食を食べ終わったら」のように設定するのが良い。逆に辞めたいときはトリガーを見えなくするのがいい。テレビをつい見てしまうのならばリモコンを引き出しの中に入れるとか、禁酒をしたいのであれば家に酒を置かないようにする。こうすることで、きっかけを作る。

あとはこの習慣を付け足していくことで良い習慣のループを作っていく、というのが狙いだ。良い習慣Aをやったら良い習慣Bをやる。Bが定着したらCを…という風に積み上がるのを邦題では「複利」としているのだろう。線形な増加に見えるので邦題は微妙だ。

とはいえ、習慣化に悩んでいるのであれば取り入れられる点は多い。数多ある習慣化本でもかなりオススメできる一冊だ。

機龍警察 白骨街道

シリーズ第六弾である『白骨街道』のテーマは「怒り」だろう。タイトルとあらすじから想像できるように、下敷きになっているモチーフはインパール作戦である。

軽く説明しておくと、インパール作戦というのは第二次世界大戦末期、国民党軍を支援する援蒋ルートを絶つべく、イギリス軍の拠点であったインパールを攻略するために行われた一連の作戦行動である。兵站の無視をはじめとした無茶な作戦計画を牟田口廉也中将が強行し、多くの犠牲を無為に出した作戦でもあり、現代においてなお「愚の象徴」として扱われることも多い。文学作品ではあるが、高木俊郎の『インパール』シリーズを読むと如何に無茶苦茶であったかが分かる。どれだけ無茶苦茶かといえば、上意下達が絶対である軍隊組織において中将クラスが作戦命令を無視して独断撤退するレベルである。

インパール作戦への「怒り」とは何だろうか。体面だけを考え、何も責任を取ることなく無茶を現場に押しつける上層部への怒りがまず来る。

「この国はね、もう真っ当な国ではないんだよ」

月村了衛『機龍警察 白骨街道』

本作での沖津のこの台詞は、これまで公務員としての建前を大事にしてきた彼のキャラクターを考えるとあまりに重い。本作では沖津の政府批判、社会批判がインパール作戦に重ねて語られる。

「私は部下を三人、死地へと送り出さざるを得なかった。それこそインパール作戦の当時から連綿と続く日本固有の価値観なら、国家のためで通ったでしょう。やむを得ない犠牲だと。だが今は違う。ここまで蝕まれた体制に命を捧げても意味はない。ついでに言わせて頂くと、体制と国家は同義ではない

月村了衛『機龍警察 白骨街道』

昨今の日本社会を鑑みればこの台詞は間違いなく現代日本社会にも向けられた怒りであろう。だが、並の文筆家であれば「政治が悪い」で済ませるところを月村了衛は済ませない。

「蝕まれた? 一体何に? また例の<敵>ですか?」
(中略)
「すでに建前すら失われ、モラルもポリシーも欠如した、エゴイズムを声高に主張して恥じない時代の流れですよ

月村了衛『機龍警察 白骨街道』

沖津はその流れに勝てないことを悟りつつも、流れを遅らせることを目指して戦っていると語る。この時代の流れは何も日本に限った話ではない。

一帯一路を掲げ、借款の罠を使い帝国主義路線を推し進める中国。民主的に選ばれながらも、そのまさに「民意」を利用してロヒンギャを弾圧するミャンマー政府。そのことを知りながら支援を続ける日本政府。人道に悖る支援事業にたかる民間企業……どれもエゴイズムの象徴である。その怒りが交差する地点として、インパール作戦の道程が浮かび上がる。

鋭い社会批判・政治批判がありながらも、機龍警察シリーズの魅力である外連味も健在だ。鬼機夫グイジーフーのくだりなどはもはや『魁!男塾』に近い。このギリギリのバランス感覚もまた、シリーズの魅力である。

今からシリーズを追い始めてもまだ間に合う。月刊ヤングマガジンでのコミカライズは第一作『機龍警察』の中盤だ。秋の夜長にオススメのシリーズとして強く推奨したい。

人工知能で10億ゲットする完全犯罪マニュアル

SFというよりはエンタメである。一応、「予測不可能な<強いAI>よりは予測可能な<弱いAI>のほうが望ましい」というテーマはあるものの、Deep Learning の穴を突いて立ち回るクライムアクションである。

エンタメとしては一級品だ。工学的な部分の作り込みは違和感を感じさせない程度にリアリティがあり、うだつの上がらない技術者と映画オタクのヤクザ者という凸凹コンビは見ていて気持ちが良い。

SFに思弁的な部分を多く求める人であれば厳しいだろうが、近未来を舞台にした面白いエンタメを求める人であれば楽しく読める一冊だろう。

テスカトリポカ

気になってはいたのだが、直木賞受賞をきっかけに読むことにした。単なるクライムノベル、単なるノワール小説という枠に収まる作品ではない。

読後感はとにかく言語化しにくい。アステカ信仰の禍々しい部分と現代資本主義の暗部がオーバーラップし、暗闇の向こうに神――テスカトリポカ――の姿が見える。暴力描写や犯罪描写が飛び抜けているかと言われれば、優れてはいても飛び抜けているとは言えないだろう。だが、アステカの神々の世界を織り交ぜながら深淵を覗かせてくれるところに妖しい魅力がある。小説というフォーマットでしか描けない作品だろう。

バッタを倒しにアフリカへ

バッタによる食害を表す言葉として蝗害というものがある。中国の史書にも見られるもので、大量発生したバッタにより農作物が食い荒らされることを言う。

中国で被害をもたらすのはトノサマバッタだが、アフリカで被害をもたらすのはサバクトビバッタである。本書は昆虫学者を夢見た青年がモーリタニアでのフィールドワークを通して、一人前の研究者に育っていく物語である。

まず、研究記として抜群に面白い。その理由はまず、著者に研究者としての実力がしっかりあるからだろう。曰く、これまでのサバクトビバッタ研究は実験室のものがメインでフィールドワークのものが少ないという。とはいえ、フィールドワークでの研究であっても再現性が必要となる。これは科学の大原則だ。後の研究者が追試をできるように実験方法を工夫していく流れを余すところなく見せてくれるのは知的好奇心を刺激してくれる。

それでいて、研究に直接関係のないエピソードにも事欠かない。食べ物の話、頼れる運転手であるティジャニとの交流、そして、身分の不安定なポスドクとしての不安。

だからこそ、最後に訪れる白眉プロジェクトへの採用には心から安堵が湧く。

折しも2021年の10月に著者がアフリカで行った研究をもとにした論文が発表されたので、余裕ができたら読みたい。

生まれてきたことが苦しいあなたに 最強のペシミスト・シオランの思想

シオランの思想はペシミズムである。ペシミズムというのは、人生や世界を悲観的に見る思想である。それが「生きる知恵」だというのはどういうことだろうか。直観的には信じがたい。

少々迂回するが、永井均『これがニーチェだ』に以下のような一節がある。

何よりもまず自分の生を基本的に肯定していること、それがあらゆる倫理性の基盤であって、その逆ではない。それがニーチェの主張である。だから、子供の教育において第一になすべきことは、道徳を教えることではなく、人生が楽しいということを、つまり自己の生が根源において肯定されるべきものであることを、体に覚え込ませてやることなのである。生を肯定できない者にとっては、あらゆる倫理は虚しい。この優先順位を逆転させることはできない。

永井均『これがニーチェだ』

シオランはニーチェを「自分とはまるで正反対の人間を理想と仰ぐような思想家」と評しているが、シオランの思想というのはまさにニーチェが重視する価値観である「自分の生を基本的に肯定」できなかった人間のためのものである。要するに、生を肯定できず、あらゆる倫理に虚しさしか感じない人間がそれでも倫理的に生きるための思想がシオランの思想である。

シオランの思想の根幹にあるのは「開き直り」だ。生の否定として真っ先に思い浮かぶのは殺人であり、自殺である。シオランは倫理を用いることなくこの二つを否定――といっても肯定しないくらいの否定なのだが――してみせる。

ペシミストにとって「何もしない」ことは美徳である。あらゆることは虚しく、苦痛なのだから、「始まらない」こと=怠惰は美徳となる。ゆえにシオラン哲学において、勤勉は悪徳となる。凶器を準備し、殺す場所を選定し、捕まりたくなければ死体を隠すという一連の行為は勤勉さ=悪徳のなせる業となる。倫理を持ち出さなくても、結果的に「殺人をしない」という倫理的な行動規範が導き出せるのだ。

自殺についてもシオランはユニークな考えを持つ。望めば自殺ができる、という考えはポジティブに働く、とシオランは説く。我々はまず、望んで出生したわけではない。自殺のみが、自分の人生に決定的な影響を与えられる機会であるというわけだ。ゆえに、「いつでも自殺できるのだから余生を好きに過ごそう」という開き直りが発生する。別にシオランはその開き直りを強制してはいない。だが、他ならぬシオラン自身が自殺せず、老齢まで生き、病死しているのだ。

では、開き直った余生はどう生きればいいのだろうか。人生は有限である。宇宙的なスケールで見れば、あらゆることは徒労に過ぎない。大帝国を打ち立てようが、核戦争で人類を滅ぼそうが、太陽系のスケールで見れば無意味になる。多くの人間は宇宙のスケールを考えたるとあまりの虚無に打ちのめされる。しかしペシミストはそれを福音と捉える。どうせ無意味なのだから、自殺しようが、血筋を絶やそうが大したことではない。王侯貴族でもなければ、国のスケールですらそんなことは些事に過ぎない。だからこそ、好きに生きることが可能になる。

勇気と恐れ──これは同じひとつの病の両極端で、その特徴は、人生にむやみやたらと意味と重みを賦与しようとするところにある。

シオラン『崩壊概論』

人生に意味や重みが賦与されてしまえば、我々の人生がその軽重によって評価され続ける地獄に陥ってしまう。だからこそ、人生に意味など見いださないほうがいい、というのがシオランの主張となる。

そんなシオランの魅力は何だろうか。おそらくは、仏教よりも人間的な部分にあるだろう。仏教――というより釈尊の思想――はペシミスティックであるが、仏教は解脱を目指すことで非人間的になろうとする。しかしシオランは開き直りを重視し、世界に対する呪詛でもって世界に踏みとどまろうとする。人生や世界を悲観しながらも、呪いによってしぶとく生きる。この矛盾と中途半端さがシオランの魅力なのだろう。

そして何より、世界を呪っているのは自分だけではないと知れる。シオランは敗者の哲学である。

成功以外に、人間を完全に駄目にしてしまうものはない。〈名声〉は、人間に降りかかる最悪の呪詛である。

シオラン『カイエ』

負け惜しみに聞こえるだろうが、病気にならなければ健康を意識できないように、失敗と敗北を経験してこそ「成功」のありがたみが分かる。

「生を肯定できない」者、通常の尺度からすれば敗者でしかない人間にとっては、たとえそれが開き直りと詭弁であったとしても結果的に生きる活力となりえる。ゆえに、逆説的であってもペシミズムは「生きる知恵」となる。

誰もがシオランを理解する必要はない。しかし、理解されるべき者にとっては福音となる。冒頭で引用した『これがニーチェだ』の一節を理屈でなく経験として理解できるのならば、一読して損はないだろう。

11月に読みたいもの

10月はけっこう読んだが、11月は重い本に手をつけているのでそんなに読めなさそうだ。11月に読みたいのは以下。

  • トマ・ピケティ『21世紀の資本』

  • 冲方丁『光圀伝』

  • Martin Kleppmann『データ指向アプリケーションデザイン』

  • Eve Porcello、Alex Banks『初めてのGraphQL』

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?