MÉS QUE UN 'GRUPO' 欅坂46と「欅坂46」という作品
9/6(土)の昼に欅坂のドキュメンタリー映画を観ましたが、浮かんだ感触としては「歪(いびつ)」に’なってしまった’グループと、作品に飲み込まれて苦しんでいく平手友梨奈とを、前を向くために「作品として」欅坂を終わらせるという決断だったのかな、というような事でした。以下、ざっくりと感じたことを羅列していきます。
ドキュメンタリー<映画
私個人は『二人セゾン』あたりまでは比較的ちゃんと追っていた人間なので(米谷さんが好きでした)基本的な情報はあったものの、映画内で描かれた場面は後追いで知るものが多かったのは事実です。映画自体の時系列は2018、2017、結成初期、2019、と行ったり来たりしながら、ライブ映像を軸にはさみつつ、平手ちゃんと他メンバーの関係性や平手ちゃんが徐々に作品に没入していき心身を削られていくさまを、平手ちゃんからの言葉以外の部分から浮かび上がらせるような作りをしていました。多分そういう表現手法があるはず。この映画でさえも、「欅坂46」という作品を締めくくる最後の作品として位置づけているのかな、という感触でした。
ライブ映像のパートに関しては、ライブそのものの完成度も高いのもありましたが、それに加えて映画用の魅せ方(画角や音声など)を意識して作っていたのだなという印象でした。劇中で何度か引用される『不協和音』『ガラスを割れ!』『二人セゾン』『黒い羊』あたりは、曲の持つ性格と注目すべきメンバーへのフォーカスが色濃く出ていたような気がします。
結果として、「何故欅坂46という形を一度終えざるを得なかったか」といった問に対して、この映画は明確に答えを提示しているわけではありません。しかしながら、「何が起きていたか」を現状提示できる範囲のものを提示することで観客側に問いかけるようなことは、この映画で為されていると思います。
平手友梨奈という才能とグループとしての欅坂46
平手友梨奈という人物は疑いようのない才能の持ち主であることは彼女のパフォーマンスを観れば明白なのですが、それ故に他のメンバーとのすれ違いが徐々に拡がっていってしまったのが悲劇的であったというか。この喩えは多方面から怒られそうな気はしますが、平手ー欅坂はメッシーバルセロナの関係に共通項を見出すことができるのではと感じていて、その突出した才能故にグループ内で絶対不可欠な存在になっていくものの、いつしかその才能頼みのモデルが出来上がり、かつて彼女を支えたり橋渡し役として機能してきたメンバーが次々に卒業していったり、そして一度は距離を置きたいと訴えかけるも叶わず、やがて決別の時を迎える、といったように、望まない結末になっていく点からもそれは感じられるのかなと思っています(超個人的感想)。
では、その平手友梨奈という人物に対してグループはどう向き合っていたか。劇中での各メンバーへのインタビューの言葉を紐解いていくと、「不協和音あたりから作品に入り込んでいって話しかけられなくなった」「平手のバックダンサー」「平手の考えていることは私達の遙か先にある」といった、距離というか壁というか、隔てる感触を持つ文言を使っていた者もいれば、「平手の(二人セゾン)と対になるものを作りたい」「(平手について聞かれ)多分メンバーと思っていることは違うと思う」といった、「平手のいる欅坂像」に対等に伍していこうとする者もいたりと、意識というかスタンスの違いが存在していたように思いますし、現在においてもそれが解消しているかは分かりません。一言でいうと足並みは揃っていなかったと思います。平手ーメンバー間も、メンバー同士でも、そして平手含むメンバーと運営間も。幻の9thでそれが決定的になってしまったのだな、と観ていて感じました。
作品としての楽曲群と欅坂のアイデンティティ
『サイレントマジョリティー』で華々しくデビューしてからというもの、彼女らは「既存のアイドルらしからぬ」といった枕詞で知られる事が多く、楽曲の性格もまたメッセージ性が強く、ダンス含めたパフォーマンス面でのクオリティはシングルを出すごとに突き詰められていったと思います。『サイレントマジョリティー』が大ヒットしたことにより、後のシングルではそれを超えることが期待されるなど、そういった面でのプレッシャーもあったのかな、というところは劇中でも語られている部分がありました。
しかし、あまりにも早くスターダムを駆け上がった彼女らにとっては、その楽曲の強さがグループとしての自己を確立するより先に確立してしまったような印象があり、作品=楽曲がグループのアイデンティティそのものとして定着していったような感覚がありました。何というか、「この子達があの曲を歌ったんだ」というよりは「この曲を歌っているあの子達」みたいな。楽曲を表現することにおいてはスペシャリスト集団であっても、その他の部分でアンバランスな面は正直感じていたりもします。ただ、そういったアンバランスさも含めて魅力的なのが欅坂なのかな、と個人的に感じていました。
残酷な観客達とグロテスクな構造
劇中では、2019年の東京ドーム公演における平手ちゃんの『不協和音』と『角を曲がる』をピックアップして描いています。『不協和音』は2017年の紅白での一件も含めて彼女にとっては文字通り魂を削る楽曲といえるのですが、それでもこの舞台で演ることを選んだと言うことは、彼女の中で欅坂というものと離れる上で必要なピースであったのだと思っています。東京ドームでの『不協和音』においては、通常のライブ音源や映像作品ではあまり拾われないであろう、平手ちゃんのものと思しき激しい息遣いや悲鳴にも似た叫びのような発声までもが克明に描き出されていました。「不協和音を僕は恐れたりしない」「嫌われたっていい 僕には僕の正義があるんだ」といった歌詞を歌う彼女の、あまりにも悲痛な、しかし見る者を魅了するパフォーマンスは、不安定なものの上に奇跡的に成り立っていた瞬間を切り取っていたのだと思います。
また、ソロ曲の『角を曲がる』は、観客からのアンコールが鳴り響く中、スタッフに抱えられながらのギリギリの状態で、それでもステージの上に送り出される、という一連の流れもすべて映し出されています。その後広い東京ドームのステージ上に一人上がった彼女は、「らしさって一体何?」「本当の自信はそうじゃない」「だって近くにいても誰もちゃんと見てはくれず」といった歌詞を素晴らしいダンスとともに、自身の持てる全てをここに置いていくかのような迫力で表現してゆきました。『角を曲がる』をアクトすることは、自身が欅坂との道を別にしてゆくという意思表示というか、彼女なりの伝え方だったのかな、と思っています。
では、これら2曲のパフォーマンスを踏まえて、観客としての我々は「平手友梨奈」という存在をどのように捉えていたのか、という点を考えてみると、彼女を中心としたパフォーマンスに魅了されながらも、その強度故に彼女を象徴的に捉えていたというか、ある種アイコン的に捉えている部分はあったのかな、と思います。もちろん彼女個人の人間性としてそういった面ばかりではなく、年上メンバーに甘えたりだとか、活動初期に見せていた純粋な笑顔であったりとか、表現力だけじゃない魅力があるのも間違いないのですが、パブリックイメージとしての欅坂の象徴として捉えられたという面は、彼女にどれほどのものを背負わせていたのだろうか…と上記の2曲を観た時に感じざるを得ませんでした。『角を曲がる』はダブルアンコール後に行われた楽曲とのことですが、彼女には観客たちのアンコールはどのように聞こえていたのか知る由もありませんが、観客たちもまたこのある種残酷な構造に参加しているという点には自覚的である必要があるのかな、とも感じました。
そしてもう一つ『角を曲がる』で強く感じたのは「グロテスク」さでした。彼女のパフォーマンスそのものは素晴らしいのですが、この楽曲でさえも「作詞「秋元康」」であるという構造であったり、彼女が徐々に苦しんでいくのを目の当たりにしながらも9作連続でセンターに据え、9th(幻になりましたが)では選抜制を打ち出すなどの作品至上主義的にも思われるような運営(Not現場のスタッフ陣)もまた、結果として欅坂としての形を終えることになる要因であったと言えるのではないかなと。『角を曲がる』のパフォーマンス終了後、一瞬平手ちゃんは憑き物が落ちたかのような笑顔を見せましたが、彼女のそれは私に、映画「ミッドサマー」のラストで花のドレスをまといながら、燃える神殿の中でクリスチャンが焼かれるのを見て笑う主人公ダニーを想起させました。また黒い羊のMV撮影カット後、うずくまる平手ちゃんにメンバーが寄り添い支えるシーンは、本人らにそういった意図はないにせよ、ホルガの村で共感の泣き声をあげる村人たちが脳内にオーバーラップしましたし、幻の9thのMV撮影時のセットはカラフルな色彩と自然の中で行われる少女たちの祝祭といった様相で、おそらく私の脳内ではそのイメージに引っ張られてか、「綺麗なのに生々しい」感触でちょっと怖くなったのもまた事実でした。
鐘鈴と共鳴
この映画は当初4月公開予定でしたが、7月に行われた無観客配信ライブと「欅坂」の名を下ろすという「大切なお知らせ」も急遽映画に追加され、9/4に公開となりました。
それに伴い作品の終盤は無観客配信ライブの周辺時期のインタビューと、『誰がその鐘を鳴らすのか?』のパフォーマンスで構成されています。
この『誰鐘』ですが、パフォーマンス中のいわゆるセンターの位置は目まぐるしく入れ替わります。菅井、守屋、小林、渡邉理佐、といったように、流動的に、それでいて確固たる意思を持ってそれぞれのパートを演っています。センター不在という編成もまた一つの意思表示だったのかなと。この楽曲はこれまでの楽曲群と異なり、「支配したって幸せにはなれない」「際限のない自己主張はただのノイズでしかない」「悲しみに俯いてしまったって 語りかけよう」といったメッセージが語られ、これまで作り上げてきたレジスタンス像を捨象し、共に歩んでいく、手を取り合うといった決意表明でありこれまでの「欅坂」の鎮魂の詩になっているのだと私は読み取っています。振り付けの最後、左胸のエンブレムを掴んで手を下ろす仕草もまたそれを象徴していたのだなと。
アイドルとしてほぼ未経験の状態でこの世界に飛び込んできた優しくて謙虚だった少女たちは、いつしか大人達と戦うレジスタンス像としてこの数年間を歩むようになり、戦い身をすり減らし、時に仲間も減らしながらもその表現を、作品を突き詰めていたのがこの約5年間の歴史だったように思います。その功罪はどうあれ、この楽曲でもって「欅坂」を昇華し、地に足つけてまた新たな道を歩み始めるのに、この作品(映画)は大きな意味を持つのだろうと思いました。
もちろん、この映画では語られていない部分も沢山あります。しかしそれもまた、「語らない」という見せ方でもって示していることからも、「欅坂」はクリエイションとして幕を閉じたのだなと。願わくは、新たなグループは「チーム」として前を向く集団になって欲しいな、といち観客として思った作品でした。