短編小説「for others 私の私は誰のため」第3話
お店を出て、行く当てもなくエスカレーターに乗る。吹き抜けの大時計が示す時刻は、まだ2時を回ったばかりだ。エスカレーターでも貴志くんの言葉が頭を回る。
「美香の気持ちが見えない」
「美香はどうしたいの?」
「他の人のことはいいから、美香は?」
レストランフロアのひとつ下の階には書店になっていて、私は夢遊病患者のようにそこへ吸い込まれる。
確かに私は昔から自分の意見を言うのが苦手だ。いつでもまず人のことを考えてしまう。親切で優しいと言われたこともあるけれど、同じぐらいお人好しと言われてもきた。でも、それでいいと思ってた。さっきまでは……。
うろうろと店内を3周ほどさまよううちに、ふだんは足を踏み入れない女性向けの恋愛本のコーナーの前に立っていた。
「会って3秒で恋に落ちる方法」
「理想の結婚を手に入れるための黄金法則」
「かわいく出会って、かっこよく生きる」
押し寄せるピンクのカバーの洪水にめまいをおぼえすぐに立ち去ろうとしたけれど、ふと中段付近の一冊に目がとまった。
「わがまま力で思い通りの人生を手に入れる」
帯には、著者とおぼしき美人がとびきりの笑顔を振りまいている。つい手が伸びたのは、添えられているPOPのせいだった。
「もっと自分のことを考えて! 他人まかせの人生とは、もうさよなら! 眠っている『わがまま力』を呼び起こせば、恋も仕事もうまくいく!」
まるで万引きでもするように、周りを二度三度見回してから、本を手にとってぱらぱらとめくった。著者プロフィールにはこう書かれている。
「川崎加穂子 女性のための起業支援を行うウーマンパワー社代表。プライベートでは、7歳年下の夫と12歳の愛息、そして愛犬のラブとともに幸せな毎日を過ごす」
中でも目を引いたのは「私立聖愛学園高校、聖愛女子大を卒業後、起業……」という箇所だ。私は猛烈な勢いで冒頭部分のページに目を走らせた。
「私が中高大と通った聖愛学園の校訓は“for others”というものでした。他者のための人であれ。それはつねに他者に奉仕し、献身し、滅私せよ、という教えでした。その価値観はいつしか私の血となり肉となっていたのです」
顔の血がさーっと引き、体が一気に寒くなり次に熱くなった。鳥肌が立った。
「『思いやりを持ちなさい、自分勝手はいけません』と教えられて育ってきた人が多いはずです。ですが現在の日本において、女性が思い通りの幸せを手に入れるためには、その教えが足かせになることが多々あります」
「もっと自分勝手になっていい。もっと自分の気持ちを優先させていい。私は30歳を超えたところでそのことに気づき、生まれ変わりました。そこから起業し、結婚し、愛すべき家族を手に入れることができたのです……」
音を立てて閉じると、本を手にしてレジに向かった。レジ前の大きな柱にポスターが貼ってあり、全面目の覚めるような赤地に、著者写真が大きく引き伸ばされている。
「近日開催! 「わがまま力を手にいれる」特別セミナー 講師:川崎加穂子」
レジに置かれていたイベントのチラシを一緒に袋に入れてもらって店を出る。待ちきれずに本を袋から取り出し、読み始めた。
エスカレーターを降り、改札を入り、電車を待ち、各駅停車に乗り、最寄り駅につき、改札を出ようとしてチャージが足りなくてひっかかってしまうまでの約30分、私は一瞬たりともとぎれずにずーっとページをめくり続けた。
〈続く〉