読み切り小説「最近、愛がわからない。」
最近、愛がわからない。
彼からの着信で光るケータイの画面を見ながら、つくづく思う。
愛するってなんだっけ。好きってなんだっけ。
先週のデートだって、途中まではとても楽しい時間を過ごせてたのだ。
ニューオープンのイタリアン、無邪気なメッセージの書かれたケーキ、品のいいネックレス。はしゃいで写真も撮った。
最高の誕生日だった。トイレから戻ってきた彼が慌てた様子で、「ほんとごめん、こんど必ず穴埋めするから」と、奥さんと子どものところへすっ飛んで帰っていくまでは。
最近、愛がわからない。
愛するってなんだっけ。好きってなんだっけ。
付き合って2年。こういう関係は終わりにしなきゃいけない。分かってはいる。それでも、彼がいなくなることを考えると不安でたまらないし、彼だって私のことが必要だって言ってくれている。
光ってるこの電話に出さえすれば、あとの流れは予想がつく。
彼はいつものように上手に言葉を使って、謝罪の気持ちを伝えてくるだろう。私も結局許してしまうだろう。そうやってもともと相性のいい私たちの関係は続いていく。これまでも、これからも。
でも、それって、なんだろう? 愛? 恋? 好き? 嫌い?
そう考えるとなかなか電話に出れず、ケータイはそのうち光を失って、もとの暗さに戻った。
**
翌日、仕事が終わると私は、帰り道とは逆方向の電車に乗った。
「遅れてごめんねー」
私が小走りで駆け寄ると、美樹は「ううん」と首を振って、静かに微笑む。
十年来の友人から「彼氏ができたから紹介したい」と連絡をもらったは数日前のことだ。待ち合わせに指定されたのは、小さなライブハウスの前だった。
見たことも聞いたこともない男性アイドルグループのポスターが貼られていて、ちょっとした人混みになっている。
「あれ、彼氏さんは? 会うの超楽しみ! 美樹、ちゃんとした彼氏って、ひさしぶりじゃない? おめでとう!」
「ありがとう」
はにかみつつも誇らしげな表情が実にかわいい。本当によかった。
それにしてもすごい混雑だ。係員の入場開始アナウンスが聞こえる。
「ちょっとここ落ち着かないから、移動しない? 彼氏さんとはお店で待ち合わせ?」
「うん、まあ」
歩き出した美樹は、私の腕を取って入場の列に並ぼうとする。
「とりあえず、入ろうか」
「え? 入るの? ここに? どこかお店行くんじゃなくて?」
美樹は慣れた手つきでチケットを2枚出し、私を会場の中へ押しやった。
「え、中で待ち合わせ?」
「いいから、いいから」
狭い場内はすでに、100人ほどの女性客でいっぱいになっている。美樹は混雑をかき分け、私を最前列まで連れて行った。
「ちょっと、どういうこと?」
美樹は構うことなく、ウチワや光る棒などのグッズを鞄から次々と取り出して、渡してきた。
「はい、これは2曲目で使うから、忘れないようにね。あと7曲目がホントに神曲だから、期待してて。そのときはこれ、サイリウムっていうんだけど、これを緑にしてね」
ふだんおっとりとした話しぶりの美樹が、人が変わったように早口で怖い。気圧されてあとずさると、隣のメガネの女性の足を踏んでしまい、舌打ちされた。
「ねえ、ちゃんと説明してくれない?」
「……」
「ねえってば」
「わかったよ……」
美樹はすねた口ぶりで、入り口で渡されたフライヤーを示す。
ポスターで見た7人ほどの男の子が並んで笑っている。美樹が示したのは、一番端の柴犬のような顔つきの子だ。
「この子が、ボーイズビーの町田翔くん。私の彼氏」
「え? え?」
「3ヶ月前に友達に連れてきてもらって、一気にはまっちゃったの」
「え、どういうこと? はまったって。彼氏って。え、本当に付き合ってるの?」
「違う、違う。そんな、そんな」
美樹は慌てて顔の前で手を振る。隣のメガネがこっちをにらんできた。
「あ、要はファンになったってことね。びっくりしたー」
「そうだね、うん、いちばん大切な人、かな」
美樹はふたたびステージに目を移す。
その視線からは、熱に浮かされた憧れというよりも、菩薩のような静けさが伝わってきたので、かえって怖くなる。
「え……そんなにはまってるの? どれぐらい?」
「そうだなー。定期ライブ通って、グッズ買って、チェキ撮って、握手会並んで。CD出したらまとめ買いするし、合同イベントの時は差し入れも買っていくかな」
またしても早口でぺらぺら答える美樹を、途中でさえぎる。
「え、ちょっと待って、それって結構な額じゃ」
「そうだね、月に20万ぐらい? もっとすごい人いるんだから、私なんてまだまだだよ」
ぺろっと舌を出す。
「ねえ、だいじょうぶ? なにか騙されてるんじゃないの?」
私は慌てて周囲を見渡した。そういう目で見始めると、隣のメガネ女子もどこか怪しい。
「そういうんじゃないの。ほら、あの子たちって、まだ全然メジャーじゃないから、ふだんの生活もきついの。だから私がなんとかお金落として支えてあげないと」
私はたまらず、美樹の肩をつかんで揺すぶった。
「それってホストやヒモに貢いでるのと一緒じゃない。それだけ時間とお金つぎこんだって、なにも得られないんだよ?」
「でもね、私、今、本当に充実してるの」
美樹は、長い睫毛を何度かしばたたかせた。
「私が買ったグッズのおかげで、翔くんがおいしいご飯食べられてると思うと、本当にうれしくて。彼の夢をかなえてあげたい。もちろん握手できるのも幸せだし、目が合っちゃうとドキドキする。だから、仕事も張り合いが出るの。最近、職場の人も『いいことあったの?』って」
「でも、あの子だって美樹にだけ愛想よくするわけじゃないんでしょ? ムダじゃない。ねえ、目を覚ましてよ。もっと普通の人と普通の恋愛しなよ。私たち、まあまあいい年だけどさ、まだ間に合うよ、ヤケにならないで」
あれ、これ、誰に言ってるんだろう?
なんで私はこんなにムキになってるんだろう。いつのまにか、涙目になっていた。
美樹は、まっすぐな目で私を見る。
「私もね、この年になるまでいろんな恋愛してきたよ。中には、つらい恋もあったし、世間に自慢できないような関係もあった」
そうだ。私も美樹も、いろんな恋愛をしてきた。思い返すと胸が詰まることのほうが多い。
「でも今は、誰にも恥じることなく一番胸を張ってられるの。私は翔くんが好き。翔くんに愛を注ぐことで、自分に自信が持てるし、生きてる実感が湧く。ありがたいの、幸せなの」
ほどなくして、ライブが始まった。
お目当ての翔くんが登場すると、美樹は「翔ーーーー!」と金切り声で叫んだ。それはこれまでの付き合いの中で、聞いたともないような声量だった。
大音量の音楽。一斉に歌い、踊り出すアイドルたち。めまぐるしく変わるステージ演出。
美樹は、その一瞬一瞬を見逃すまいと、キラキラとした目で見つめている。
サイリウム(光る棒のことをそういうのだ、と教えてもらった)に照らし出される美樹の横顔は、汗にまみれて、髪もぼさぼさだった。
でも、とてもきれいだった。輝いていた。
「美樹!」
見とれた私は思わず大声を上げる。
「なに?」
返事はするけど、視線はあくまでステージだ。
「よかったね」
小さな声で言う。
「えー、なに? 聞こえない!」
「なんでもなーい!」
そこで曲がアップテンポに変わった。
「ほら、この曲!」
美樹は私の手をとって、合図を出した。
私たちはいっしょになって、腕がちぎれるかと思うぐらい、緑色のサイリウムを振り回した。
**
鼻歌を歌いながら最寄り駅からの道を歩く。鞄には、美樹からもらったサイリウムが入っている。
正直、「ボーイズビー」なるアイドルグループのことはピンと来なかったけど(そのことを美樹は本気で残念がっていた)、とにかく楽しい夜だった。
と、ケータイが震えて光る。彼からの着信だ。一気に現実に引き戻される。
あれからちょうど一週間。そろそろ仲直りの潮時だろう。電話に出てあげようと思い、交差点で立ち止まった。
銀行のATMの窓に映る自分の姿が目に入った。
ケータイの光に淡く照らし出された女の顔には、静かな諦めと自嘲の笑いが張り付いていた。
瞬間、さっきまで見ていた美樹の横顔が脳裏によみがえる。
サイリウムに照らし出された、満面の笑み。
自分の半分ぐらいの年のアイドルに夢中で、だけど、胸を張って「愛」を口にできる彼女の笑顔は、ほんとに幸せそうだった。
それに比べて、私はどうだろう。
最近、愛がわからない。
愛するってなんだっけ。好きってなんだっけ。
今夜の美樹がその答えのひとつを教えてくれた。
愛するということは、相手の幸せを切に、心から願うことだ。
さみしさを埋めることでも、相手の都合に合わせることでもない。はず。たぶん。
私はもう一度、窓に映る自分の姿を見てから電話に出た。
「もしもし……」
鞄からは、派手なデコレーションが施されたサイリウム棒が、ぶっかっこうに、でも元気よく突き出ていた。
〈完〉