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犬岩・千騎ヶ岩 ~銚子の義経伝説~
銚子電鉄の終点・外川(とかわ)駅から奥に進み,外川漁港に出て屏風ヶ浦へ向かう途中に,犬岩(いぬいわ)があります。
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源義経が置いていった愛犬が7日7晩鳴き続け,8日目に岩になっていたという伝説のある奇岩です。
源義経は,悲劇の英雄として昔から多くの人々を魅了してきました。
一ノ谷の戦い(鵯越の逆落し),屋島の戦い(那須与一の扇の的),最後の源平合戦・壇ノ浦の戦いと,平家を滅亡に追い込む活躍で名声を上げた義経でしたが,兄・頼朝と対立し京都を追われる身となります。
義経はかつて暮らしていた奥州の藤原氏のもとへ逃亡しましたが,頼朝の圧力に屈した藤原泰衡によって自害に追いやられます(1189年,享年31歳)。
判官贔屓(ほうがんびいき)は,不遇の英雄や,実力・才能があるのに敗者となる者などに対して,同情することを指す言葉です。
この言葉も,不遇の英雄として庶民から愛された義経に由来しています(「判官」は義経が就いていた律令制の役職)。
犬吠という地名の由来を,角川日本地名大辞典は「義経が兄の頼朝に追われて奥州に逃れる際,この地に立ち寄り,海岸に残された愛犬が主人を慕って7日7晩ほえ続けたため,『犬吠』という地名になったという」と解説しています。
銚子には他にも義経にまつわるものがあります。
犬岩の数百メートル先に千騎ヶ岩(せんがいわ)があります。ここに義経が千騎の兵をもって立てこもったと言われています。
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また,少し離れた長崎海岸に宝満(ほうまん)と呼ばれるごく小さな2つの島(島というよりも岩)があります。
宝満は「判官」が訛ったもので,義経はこの辺りに隠れていたと言われています。
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しかし,そもそも,義経は銚子に来ていたのでしょうか。
義経が奥州にどのようなルートで逃げたのか,史料上は明確ではありません。
しかし,吾妻鏡(鎌倉時代に作られた歴史書)の文治3(1187)年2月10日条に「遂に伊勢・美濃等の国を経て奥州に赴く。…妻室男女を相具す。皆姿を山伏ならびに児童等に仮ると云々」との記載があります。そして,五味文彦著「源義経」(岩波新書)は次のように述べて,北陸ルートが最も考えられるとしています。
義経らは山伏姿で伊勢・美濃を経て奥州に下ったとあるので,南都から伊賀・伊勢を経て美濃に出たのであろう。近江は在京御家人の佐々木定綱が守護として警戒にあたっていたから,ここは避けたものかと見られる。しかしそこからそのまま東山道を経て下ったのか,あるいは飛騨・越中を経て北陸道から奥州に向かったのかは明らかでない。ただ山伏の姿をとっていたということなので,修験の場が連なっている北陸道経由が最も考えられる。
なので,残念ながら義経は銚子を経由していません。
昭和31年発行の銚子市史は,銚子の義経伝説を「荒唐無稽のこじつけ」と厳しく断じています(154頁)。
銚子市史は,市内の民家にあった義経の借用証文とされる文書に言及し,これを批判しています。
作成名義は義経と武蔵坊弁慶,作成日は文治4(1188)年4月18日です。
此度狄地に渡為,養米粟七斗致借用候也 若帰国無之におゐては時之将軍に可願裁断者也
文治四年四月十八日
伊予守源義経
武蔵坊辯慶
亀井六郎重清執事
惣平殿
銚子市史は,「第一に書体や紙質が時代に適合しない点で落第であり,書式からも古文書学上,全く議論の対象とならない支離滅裂の偽書である」,「此の年月の頃には既に義経は奥州平泉の清衡(※)のもとに在り,関東にうろついているワケがない」と指摘します。
そして続けて,「この地方は頼朝無二の忠臣たる千葉常胤(つねたね)並びに一族東氏・海上氏の領する地で,とうてい彼の立入りを許さないばかりでなく,順路から云っても通過のことは考慮の余地がない。換言すれば,当時の海上郡は義経にとって,日本で一番危険なところであった」とダメ押しします。
さらに指摘すると,先ほどの証文はあちらこちらでコピペが発見されています。
例えば,奥州会津油田村の百姓の惣平が所持していたとされるものは,次の通りです。
此度北敵に相渡り候為粮養米(ろうまいとして),粟七斗致借用者也。帰参これ無く候わば,時の将軍の裁断に預かるべく候也。
伊予守源義経
文治四年四月十八日
筆者 亀井六郎とこれ有り
原田信男著「義経伝説と為朝伝説 日本史の北と南」(岩波新書)は,この証文について次のように分析しています。
おそらく実際には,この手の文書が,かなり出回っていたものと思われるが,いずれも表記や表現に微妙な違いがあるだけで,ほぼ同一の内容となっている。……おそらく義経伝説に乗じて偽文書の写を村々に広め歩くような輩が存在したものと思われる。彼らから謝礼を払って求めるなり,あるいは書写するなりして広まったものだろう。
実際には来ていないにもかかわらず銚子に義経伝説があるのは,東北・銚子間の船の往来が理由として挙げられます。
銚子市史も,「江戸時代に於ける仙台領と銚子は,物資の舟運を通じて交渉密なるものがあったから,かような文書や伝説の交流も考えられる」と記しています(156頁)。
犬が8日後に巨大な岩になることも,海に浮かぶ小さな岩の島に千騎が立て籠もることも,それ自体が明らかにオーバーな話です。
上沼恵美子さんが「実家は大阪城」と力説したり,私が「四谷の迎賓館は山下邸の別荘です」と皆さんをご案内するのと同じで,ファンタジーとして楽しく共有されるべきものだと思います。
しかし,義経伝説はファンタジーとしては済まされない側面も持っています。
義経は,北海道に渡ってアイヌの人々の崇敬を集めた,中国に渡って清王朝の祖になった,果ては,モンゴル帝国の始祖・ジンギスカン(チンギス・ハン)が義経だったなど,とてつもなく飛躍していきます。
そしてオーバー過ぎるはずのそれらの「伝説」は,近世・近代の日本が北海道を支配していく過程や,その後の日本軍の大陸進出にも関係していて,深く考えさせられます(原田信男著「義経伝説と為朝伝説 日本史の北と南」(岩波新書))。
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なお,犬岩も千騎ヶ岩も,中生代ジュラ紀(2億年前~1億5000万年前)という非常に古い地層でできた,珍しいものです。
銚子ジオパークのウェブサイトもご覧ください。
ジオパークについては,屏風ヶ浦の記事で後日改めて詳しく書きたいと思います。
犬岩や千騎ヶ岩の近くにある「犬若食堂」は,以前は風情ある外観で,ドラマや映画のロケに使われていました。
最近建て替えられたため,以前の外観ではありませんが,ぜひお立ち寄りください。
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※ 銚子市史にあるとおり「清衡」とそのまま引用していますが,誤記でしょうか。藤原清衡は,義経を自害に追いやった藤原泰衡の祖父ですが,はるか前の1128年に亡くなっています。ここは泰衡の父である「秀衡」と記載すべきように思われます。もっとも,義経が奥州に着いた1187年に秀衡は存命していましたが,この証文の作成日の1188年には秀衡はすでに亡くなっています。