見出し画像

珈琲の神様 1


「今の時代は本物がわかる人がいない」

東京の下町、入谷にあった珈琲店「入谷キャラバン」のマスター、諸岡實さんはときおりこう言って世を嘆いていました。


「珈琲の神様」こと諸岡實さんが亡くなって約10年。
マスターは間違いなく自分の人生に大きな影響を与えた一人であり、ときには暖かく、ときには叱咤激励しつつ、いろいろなことを教えてくれた人生の師の一人でした。
そのマスターについてネットで調べてもあまり出てこないので、追悼の意を込めつつ、何回かにわけて書いていきたいと思います。


市井の達人

運動科学総合研究所が「ディレクト・システム社」という名前だったころに出していた小冊子(?)に「身体意識新聞」というものがあり、その記事の一つに「市井の達人」という連載がありました。
「市井の達人」では、街中の身近な職業の達人レベルの方たちを取り上げたもので
、前半はインタビュー、後半は高岡先生による身体意識の分析(写真だけから分析したもの)という構成でした。
その最終回に出てきたのが、入谷キャラバンのマスター、諸岡實さんです。

その記事はたいへん面白く読んだのですが、自分はそもそもコーヒーはあまり好きではなかったので、店に行ってみようとは思ってもみませんでした。
少ししてからトレーニング仲間が店に行ったところ、非常に感銘を受けたらしく「ぜひとも木上さんも行ってください!」と言われたので、あまり気乗りがしないものの行ってみることに。


はじめての入谷キャラバン

日比谷線入谷駅から歩いてすぐ、探さなければ見つからないような裏通りに入谷キャラバンはありました。

そのころの自分はカフェとか喫茶店とかには全然行かない人間だったこともあり、昭和レトロ風な個人店はなかなか入りづらく、ハードルが高かったのですが、せっかく来たのだから、と勢いで入ってみました。

普段、店のカウンターに立っているのは奥さんのことが多かったのですが、そのときはたまたまマスターでした。
マスターがいるなら、とカウンター席に座りました。後日マスターが言うには「初めて来ていきなりカウンターに座るからよっぽど自信があるのかと思ったよ(笑)」と言われましたが、単純にマスターをよく見たかったからです。

とりあえずスペシャルブレンドを注文し、飲んでみたところ、マスターの珈琲は今まで飲んだことのあるコーヒーとは違う「全く別の飲み物」でした。「こんな美味しい珈琲があるのか!」と衝撃を受けたのを覚えています。そしてその場で珈琲の淹れ方を教わり、珈琲豆を買って家で淹れるようになりました。

そこから何年もの間、豆を買いに月に1〜2回は通うようになり、家で毎日のように珈琲を飲む生活になりました。なぜかマスターに気に入られて、店に行くたびに1〜2時間はお話を聞くようになり、長いときには2時間ほど話したあとに「そろそろ帰ります」と言って席を立ってから立ち話が止まらなくてさらに一時間、ということもあったものです。


マスターの身体意識

高岡先生による分析によるとマスターは、下天から上天に抜けるセンター、上中下丹田、裏転子と強力な前方力、側軸、深く鋭い洞察力をもたらす頭部のダブルクロスとウェーブ等々、繊細かつきっちりとした、素晴らしい身体意識を持っているということでした。実際に会ってみると、体型的には少し太めくらいなのに立ち姿が非常にスッキリとしいて、なおかつきめ細やかで繊細な感じがあったのが印象に残っています。

マスターは江戸っ子かつ、昔ながらの職人という感じで、一見口が悪いよう見えますが、そこには職人としての矜持と、世の中に対する確かな目というものが感じられました。

マスターからはおりに触れて職人としての考え方、生き方の話を聞かせてもらいまして、それは自分が今の仕事をやって行く上で、大きな財産となっています。

また、よく「あなたは人の下についているよりも、自分で仕事をするのが向いている」と言われていましたが、そのころは独立して仕事をする展望も気概もありませんでしたので、まさか今になってそれが現実となるとは思ってもみませんでした。


「今の時代は本物がわかる人がいない」

冒頭の言葉ですが、マスターは身体意識新聞の取材のときに高岡先生の写真を見て「この人は本物だ。この人にはうそをつけない」とインタビューで語ったそうですが、実際に本人の口からその言葉を何回も聞きました。マスターは写真を見ただけでもその人が「本物」かどうかわかるということでした。

「本物がわかる人がいないから本物が評価されない、だから本物が育たない、そういう時代になってしまった。君たちは本物がわかるようになりなさい」というようなことを、いろいろな例をあげて話をしてくれました。

そのときは「そんなものなのか〜、本物がわかるってピンとこないけど、マスターはすごいなあ」という程度でした。


後年、スポーツを初めてとして、芸能、舞踊、音楽、研究などの様々な分野に調整師として関わるようになり、また自分のトレーニングも進み、調整を通じてそれらの文化の本質力というものは何か、ということを認識しようと努力してきた結果、そのことの重大さに気づかされたのでした。

武術の分野ではある程度わかっていたのですが、江戸時代から明治、昭和と時代が下っていくに従って、本質力の低下がとりかえしのつかないレベルで進行していて、それに伴って具体力が低下し、変質していく。
一般の人のみならず、専門家の大部分が古典やクラシックでいう「本物」というものがわからず、手先のテクニックや解釈、ちょっとした違いや面白さを評価して、「本物」に触れることがあっても評価しない、評価できないという現状。これでは本物が育つわけがありません。
特に高度な水準に到達していた文化でそれが顕著であることがはっきりと見えてきたのです。
もちろんこれは文化だけでなく、政治、経済などあらゆる分野で起こっていることでもあります。

マスターはこれを嘆いていたのだなあ、と今になってさらに実感が湧いています。自分としては、調整という仕事を通じて「本物」がわかる社会を復活させていきたいとは思っていますが、その前に自分がトレーニングしてさらに上達していくことが必要ですね。


とりあえず今回はこのへんで。
次回からはメモしていたマスターの語録的なものを書いていこうかと思います。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?