日本とアジア(竹内好)
竹内好
ちくま書店1993
ぼくが竹内好を初めて読んだのは、大学2年生のとき、東大帰りの教員が担当する授業でのことであった。
顔も胴体もメガネも丸く、声さえ丸みを帯びていたあの教員だが、とんでもなく尖った授業をぼくたちにしてくれた。クラス全員中学校から日本語を勉強してきて、N1試験などとうの昔に全員合格したのだから、礼儀正しい日本語しか書かれていない教科書など読んでも意味がない、もっと思考力を養えるものを読めーーとでも言わんばかりに差し出されたのは、近代以降の日本の思想家が書いた短い論文を集めた文集であった。文集に書いてあるのは確かに日本語で、わからない単語も殆どないのに、それを読み進んだぼくたちは、なぜか脳がショートするほどの感覚に苛まれた。そんな学生の姿を見慣れたであろう教員は眉一つ動かさず、「来週からゼミ形式で週替りに発表をすること」と宣言。こうして、大学2年生でありながら、後の東大の大学院で経験する授業をぼくたちが受けることになったのである。
思えば、あの文集に収録された文章をすべて理解するのは、あの時点で不可能だったばかりか、今なお困難を極めるだろう。なにしろ、そこには竹内好以外にも、和辻哲郎、三木清、加藤周一などなど、そうそうたるメンバーが揃っており、「記号論」「ペルソナ」「雑種性」のような専門用語が頻出していたからだ。まだ学術研究の素養がまったくなかったぼくたちが、作者たちに立ち向かうのは身の程知らずもいいところだった。
だが、あまりにも無知だったことが逆に幸いして、ぼくたちはビッグネームを恐れることなく、裸一貫でテクストに立ち向かうことができたのも事実である。その御蔭で、とても深い読みとは言い難いものの、ぼくたちは自分なりに日本を代表する思想家たちと対話することができ、なんとなくわかった気になって議論することができた。そのときに形成された第一印象は、日本に留学してから同様なテーマを取り扱うときに大いにぼくを滋養してくれた。もちろん、多く読むにつれ当時の浅はかさに気づくことがほとんどだが、それでも自己否定を通じて得られた新たな知見は、ただ書かれたものを受け入れるだけより数倍も生命力に富んでいた。その上、極稀に当時の読みが間違っていなかったと気づくこともあり、そんなときは「オレも捨てたもんじゃないな」と一人で得意満面になった。
だが、数ある論文のなかで一本だけ、「わかった気」にすらなれなかったのがあった。それが本書『日本とアジア』の最初に収録された「中国の近代と日本の近代」である。そして、ぼくを最も悩ませたのが、次の指摘であった。
「明治維新は、たしかに革命であった。しかし同時に反革命でもあった。明治十年の革命の決定的な勝利は、反革命の方向での勝利であった。(中略)辛亥革命も、革命=反革命という革命の性質はおなじだ。しかしこれは革命の方向に発展する革命である。内部から否定する力がたえず湧き出る革命である。(中略)つまり生産的な革命であり、したがって真の革命である。」
中国の学校教育では、明治維新こそが「成功」したものであり、辛亥革命は「ブルジョワジーの軟弱性」が仇となって「失敗」したと教え込まれる。それに対し、中華人民共和国の創立につながった共産主義革命は、プロレタリアートが主体とされているため、ブルジョアジーの弱点が克服された「徹底的」な革命であり、辛亥革命と全く性質を異にする。しかし竹内好の視点では、中国は「内部から否定する力がたえず湧き出る」ものであり、共産主義革命は辛亥革命の継続(もちろんその間にほかにも多くのものを挟むが)となる。一方、日本では明治維新という一回限りの革命が起き、猫も杓子も舶来の価値観と制度を無反省に受け入れたーー
当時のぼくはこれくらい考えるのが精一杯であり、そして容易に納得できなかった。なぜなら、辛亥革命と明治維新への評価をこれまで受けた教育から180度転換させることは、中国の近代史全体の流れに対する理解に地殻変動を引き起こすものであり、誇張ではなく価値観の変革を迫るものとなるからだ。それができなければ、竹内好に深く入り込むことが無理だったのである。
幸か不幸か、あれから20年近くが経ち、価値観はすっかり変わってしまった。今なら竹内好の議論がよくわかる。彼が辛亥革命やそれに続く中国の一連の革命に見出そうとしたのは、ヨーロッパに「抵抗」し続ける東洋の姿である。明治維新によって日本がかつて学んだ中国の制度、文化、そして精神までもをすべて捨て去る代わりに、その時点で世界最高と思われた西洋の制度、文化、精神を導入したのだとすれば、中国は西洋の即物的な先進性を一応認めつつも、文化、精神の面では西洋に抵抗し続けた。竹内の言葉で言えば「自己自身であろうとする欲求」を持っていたのである。
このように考えた竹内は、日本を中国の対極においた。中国が抵抗したのに対し、日本は素直に西洋を受け入れた。抵抗した中国は古い価値観に固執したため「後進的」と見なされ、いち早く脱亜入欧した日本は自分たちが「先進的」だと舞い上がった。中国は内なる動きとして「回心」し、古い価値観や思想を再生させることでしか前進できなかったのに対し、日本は次から次へと舶来の思想に「転向」し、いつでもその時代の最先端に牽引されることができた。牽引されている以上、自分が最先端ではないのは認めるが、それでも後進国よりは遥かにマシーーそんな優越感が肥大化していった結果、アジアの諸民族を導くことができると日本がうぬぼれ、先の大戦が起きたのである。
かくして竹内は、最大限の皮肉と反省を込めて日本の近代を論じた。だが、彼は決して「だから中国に学べ」とは言わない。なぜなら、安易に「学ぶ」ことは明治時代や戦後のような無反省の「転向」の繰り返しでしかない。竹内が求めているのは、中国というアジアの近隣を参照系とし、日本自身の「主体性」を身につけることだ。この立場に対し、「西洋のいいものを取り入れてどこが悪い?その柔軟性こそが日本の主体性ではないか」と開き直る向きもあるかもしれない。竹内とて、西洋の価値観の導入それ自体が悪いと言っているのではない。しかし、だからこそ単に受け身になっているだけではだめだ。なぜなら、現実を見つめれば、自由、平等、民主など、西洋が近代において血なまぐさい暴力とともに東洋と世界各地に持ち込んだ価値観が、本当に実現されているとはとても言えないからだ。現今の世界を見る限り、それらの価値観は西洋においても東洋においても、華飾の下に空っぽな骨組みしか残していないと言うべきである。そのことを理解すれば、竹内が主体性の必要性を明言した次の言葉の意味がはっきりしてくるだろう。
「西欧的な優れた文化価値を、より大規模に実現するために、西洋をもう一度東洋によって包み直す、逆に西洋自身をこちらから変革する、この文化的な巻返し、あるいは価値の上の巻返しによって普遍性をつくり出す。(中略)その巻き返す時に、自分の中に独自なものがなければならない。」
これは「方法としてのアジア」と題された講演のなかの一文である。竹内の考えでは、自由・平等・民主などを代表とする「西欧的な優れた文化価値」は、せいぜい西欧諸国の内部でしか実現されておらず、そして西洋はむしろ真逆の態度で東洋に向かったのである。そうした文化価値の普遍性を認めたとしても、「独自なもの」で西洋を変革させなければ、全世界での実現は到底不可能だと言うのだ。「独自なもの」は、上の「自分自身であろうとする欲求」と同義だと考えて良く、おそらくこの表現を目にした時点で、昨今の多くの短絡的な日本人は、「日本ってば独特で素敵なものに溢れてるんだよ!」と考えるだろう。しかし、竹内はまるでその反応を予想しているかのごとく、上の引用に続きこう述べている。
「その巻き返す時に、自分の中に独自なものがなければならない。それは何かというと、おそらくそういうものが実体としてあるとは思わない。しかし方法としては、つまり主体形成の過程としては、ありうるのではないかと思ったので、「方法としてのアジア」という題をつけたわけですが、それを明確に規定することは私にもできないのです。」
「独自なもの」は実体ではないのである。優れた工芸品ではなく、伝統芸能でもない。里山的風景ではなく、古き良きと観念される生活様式でもない。なんなら、職人気質や慎ましやかな精神性でさえない。それは「主体形成の過程」である。形成された「主体」ではなく、形成する「過程」である。しかし、果たして「過程」とは何なのか、竹内好はなんとも無責任に回答することを放棄した。疑問を投げかけておいて、自分ではろくに説明をしない。果たして彼の言う「方法」とはどういうことか。どのような「方法」を駆使すれば、「西洋をもう一度東洋によって包み直す」ことが可能になるのだろうか。次回は、中国を対象にこのことを思考した著作を読む。