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ぼくのなかの日本(第34回、虚勢)

虚勢

数年前まで、ぼくには、悪い癖があった。人と話す時、とくに相手と自分が同格の場合、ついつい相手の反応を伺ってしまうのである。それは相手の懐に飛び込み、本音を引き出すための話術ではなく、ただ相手の感心や驚嘆、はたまた笑いでもいいから、何らかの感情的な反応を引き出そうとする試みだった。だからぼくは、ついつい誇張したり、もったいぶって話したりしてしまう。大抵の場合、相手も会話を続けていくうちにこっちの意図を汲んでくれ、ぼくがほしい表情を見せてくれるものだが、それを目にした瞬間、ぼくは満足するのではなく、人を騙した罪悪感と自分を偽った虚しさが胸いっぱいに充満し、「もう次はこんなことしない」と決心するものの、次に同じ局面に出くわした場合、やはりそれを繰り返してしまう。

今でもこの癖を完全に克服したわけではないが、だいぶよくなってきている。その最大の要因は、精神的に強くなったなどという掴みどころのない話ではなく、ぼくが大学院をやめ、自信を持てるようになったためである。数年前まで、通訳者と研究者をめざしての大学院生と、2足のわらじを履いていた。前者からは収入と自信を、そして後者にはその収入をつぎ込み、自信を奪われていった。自信のなさの裏返しとして、ぼくは虚勢を張り、一瞬でもいいから、自分がさも中心であるかのように見せかけておきたかったのである。

そのほんの一瞬に続く虚しさの中で、ぼくはよく中学校のときの自分を思い出していた。あのころも、学業などで自信をつけ始めていたと同時に、外国人や運動神経のコンプレックスは消えず、シーソーのように両端を行ったり来たりしていた。だから、大人になってからと同様、ぼくはよく虚勢を張った。とくにテストで思ったほどの成績を取れなかったときは、よく嘘をついていた。普通、テストの成績をごまかすのは親に対してである。しかし、うちの親は成績ごときで子供を叱るほどバカではない。そのため、ぼくは親には素直に成績を報告するのに、同級生には嘘をついていた。

たとえば中1に入ってすぐ、数学の小テストがあった。問題は基本的な四則演算100問、勉強した知識を身に着けたどうかを確かめるより、時間内にどれだけ正解できるかを競うゲーム感覚のものだった。自信満々なぼくだが、答えが返ってくると唖然とした、95点以上は取れると思っていたのだが、実際は80点台だった。幸い先生は成績を公表していない。誰にも見られないように答案用紙を机にねじ込んで、こともなげに教科書をめくるぼく。そこに、隣席の谷さんーー入学当日、「数学教えてね!」と明るく言ってきた彼女であるーーが、「ねえ、何点だった?」と、触れてほしくない話題に無遠慮に土足で踏み込んできたのである。

「うん、まあまあだよ。」明言を避けるが、谷さんは引き下がらない。
「まあまあって何点だったの?90点以上?」
「まあ、そんなとこかな。」
歯切れが悪い。この様子を見れば、谷さんもなにかを感づくだろう。しかもぼくが答案を机の中にねじ込んだのを、彼女は見ていたはずだ。小学校の同級生でもある彼女は遠慮しない性格である。「ふーん」とこっちの警戒を解いてから、いきなりぼくの机に手を突っ込み、二つ折りにされた答案用紙を取り出した。ぼくの反応がもう少し早ければ、「なに人のもの勝手に触ってんだよ!」と、やや大げさながらも正当性のある主張を展開し、答案用紙の奪取を阻止できたはずである。しかし、谷さんの意図に気づいたときは時既に遅し、彼女は手に持っていた二つ折りの紙を今にも開こうとし、「ちょっと確認させて!」といつもの明るい調子で言っていた。

頭が真っ白になった。「見られてしまう。90点以上じゃなくて80点台だということがバレてしまう。ぼくのイメージが崩れてしまう。それだけはなんとしても避けなければ」。「イメージ」などあるかどうかさえ怪しいのに、「今回はしくじったよ」と素直に認めればいいのに、ぼくはまるで自分の非を認めることができないどこかの総理大臣のように、谷さんが点数を見るのを阻止することしか頭になかった。彼女は答案用紙を奪い返されないようにと、背中をこっちに向けているが、構うものか。ぼくは彼女の文字通り飛びかかり、上から赤色の✗印がいくつもある紙切れを奪い返した。

傍から見れば、いろいろな意味で危険なシーンに見えていたはずだ。なにしろ、学ランの男子がセーラー服の女子に飛びかかり、その背中にのしかかっている体勢だったのだから。すぐに自分の席に戻ったが、谷さんは顔を真赤にして怒っていた。ばつが悪いぼくは謝ることもできず、黙々と目を合わせないようにするのみ。その後数日間、谷さんに口を聞いてもらえなかったのは、言うまでもない。

これに懲りて反省すればよかったのに、ぼくはただ「バレなかった」という結果に安心し、その後もテスト成績の虚勢を張り続けた。あの学校はごく普通の公立校であり、順位表を張り出す慣習がなく、答案用紙を返すときは決して点数を読み上げない。実際ぼくの成績がクラスで上位だったこと、さらに谷さんの件以降、答案用紙のセキュリティにいっそう気を使うようになったことで、通知表を他人に見られない限り、5〜10点くらいサバ読みしても、バレる心配は皆無だった。

そんな調子で中2になったある日、中間テスト明けの授業で、中2から学級委員になった細川くんがぼくのところにきて、数学の点数を聞いてきた。総合成績がほぼ毎回クラストップで、学年でもトップ5に入る細川とは、それまでも何回か同じようなやりとりをしていたため、ぼくはとくに警戒することもなく、一桁のサバを読んだ数字を答えた。しかし、いつもなら微笑んで去っていく彼が、今回は顔をしかめた。「ん?ちょっと待って」と、顔のパーツをすべて真ん中に寄せてぶつぶつと何かをいいながら、もうひとりの成績のよい男子である近藤くんとところに行った。遠くからあの二人がいろいろ確かめあっているのを見て、「これはやばい」と感じるぼく、案の定、細川はすぐに戻ってきて、ぼくの鼻を指差しながら言った。

「おまえ、嘘ついたな!」
「は?なんのこと?」すでに敗北は決定的だが、ぼくはなおも最後の悪あがきをした。
「おまえがさっき言った点数、あれだとオレより上で近藤より下になる。でも数学の先生に聞いたけど、今回オレはクラスで2位なんだって。だからおまえがうそついてんだよ!」

コナンくんのように反論のしようのない推理である。しかしぼくは、谷さんのときのように焦ることはなかった。点数を確かめるためにそこまでする細川に感心したのもさることながら、興味本位で成績を見ようとする谷さんと異なり、細川の表情は、「うそをついた」とぼくを糾弾する言葉と裏腹に、喜んでいたからである。おそらく、2位はプライドの高い細川が我慢できる最低限のラインだったのだろう。だから、ぼくのうそで一時3位に転落しそうになった彼は、無事2位を確保できて安心したのである。しかも、その嘘を見破ったのは彼自身だ、二重の意味で、彼はぼくに勝利したことを心から喜んだはずだ。

「ちぇ、バレたか」自分でも驚くほど言葉が素直に出てきたぼく。そして細川は、思ったとおりに一層と破顔し、ぼくの肩に腕を回して、耳元で小さくつぶやいた。

「おまえもこんなことするんだな。安心したよ。」

細川くんは、たしかに「も」と言っていた。彼の喜ぶ顔を見て、ぼくも安心した。

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