東インド会社とアジアの海(羽田正)
雑談
またもやかなり長い間、読書シリーズを更新をしなかった。
理由は少なくとも二つある。本は引き続き読んでいたが、大半が文学である上、「中国を読む」というテーマに沿うものがほとんどなかったこと。ポストコロナで急激に忙しくなり、ほかのものも書いているため、おちついてブログを更新する時間がとれなかったことだ。しかし、こうして書き出してみると、両方とも事実だが、同時に言い訳でもあると認めざるを得ない。中国に関する文学や和訳された中国人の文学は山のようにあるのに、ぼくは半ば故意にそれらを避けてきた。時間は、アドレナリンを求めるだけのゲームの時間を削れば、いくらでも捻出できる。更新しなかった理由は、より深いところまで掘り下げなければならない。それは、今なら素直に認めることのできる、次の一言に集約できるだろう。
どうやら、「中国」というものに、ぼくは興味を失い始めたらしい。
ここでの「中国」は、今の政権に代表される中国である。しかし、以前読んだ葛兆光氏が思考するような、「歴史的にみて、中国とはなにか」「一定の境界を持つ中国はいつから存在したのか」という中国についても、それを一個の独立した実体として扱うことに、違和感を持ち始めるようになった。葛氏は、「(歴史上の中国)の空間は、外周がやや曖昧で、変動することもあるが、中心は比較的明晰で安定している。王朝は盛衰を繰り返すが、歴史は終始明確な脈絡のなかで進展してきた。文化は外来の文明からの挑戦を受けたが、相当程度に安定し、重層的に蓄積されてきた伝統を終始持ち続けた」と見ている。この見方は正しいと思うが、今のぼくは、明晰で安定している中心よりも、曖昧で変動する外周のほうに、より興味をそそられているようである。その外周は必然的に、中国の枠組みから外れる権力や政権、人々の暮らし、文化や文明と交わることになり、それらを読むことに、今は心躍るのだ。
この心境の変化に気づいたのは、昨年9月、はじめて長崎を訪れたときのことだ。異国情緒がちらし寿司のネタのように街中に広がる長崎において、ぼくはいわゆる西洋といわゆる東洋がこれほどまで自然に同居し、しかもそのいわゆる東洋も中国/日本二者択一の見方では捉えきれない特異なものになっていることに、久しぶりに身震いを覚えるほどに感動した。数百年にわたる人々の営みーーなにかを変えようという意欲を持たず、ただ暮らすだけの営みーーが、ともすれば人間を圧殺する大きな歴史の流れのなかで、抹消することのできない暖かい痕跡を残した。半年過ぎた今も、その感動は冷めるどころか、再訪したい思いが日に日に強まるのである。したがって、今後数回は、長崎に触発されて読んだものを紹介する。
読書感想本文
東インド会社とアジアの海
羽田正
講談社2017
本のタイトルからもわかるように、本書の主役は東インド会社である。世界史の教科書に必ず登場するこの世界初の株式会社がどのように成立し、なにを求めて世界に出て、どんな貿易を展開したかが主な内容だ。もちろん、彼らが行ってきた蛮行の数々も記録されている。特に初めの二章は、人間不信に陥らせるに十分なほどの残虐さに溢れている。一例を引こう。
理知的に読むべき学術書であるゆえ、著者の羽田は、終始感情を出さない淡々とした筆致を保ち続ける。しかし、上記の内容には怒りを覚えざるを得ないぼくは、思考が何度も中断を余儀なくされてしまい、そのせいでこの本を読むのに一ヶ月もかかってしまった。いったいなぜ、こんなことが罷り通るのか、なぜクーンとやらは、誰にも罰せられずにその後も総督であり続けることができたのか。
その答えも本書に書かれている。しかも、至極単純な答えが。クーンたちを派遣したヨーロッパ側が、彼らに行く先々で殺人してもかまわない許可を与えていたからだ。東インド会社は「会社」ではあるが、軍隊を保有し、要塞を構え、条約を締結する権利を国から与えられており、「戦をしかけても構わない」地位を確保されていた。行く先々で自分たちの希望通りに貿易ができればそれでよし、できなければ、大量殺人をしてでも相手を屈服させ、思いのままに開拓し、自分たちが欲しい商品を手にいれる。東インド会社は、「利益」のために、アジアの海に死を輸出したのである。
ただし、注意が必要なのは、彼らの蛮行の多くが、東アジアではなく、もっぱらインド洋や東南アジアで行われたということだ。東インド会社は明や江戸日本にもきているが、台湾を除けばこれほど大きな流血事件が起きたことはない。彼らの最大の目的はやはり利益であり、殺戮そのものではないのだ。この違いについて、羽田はヨーロッパにおける主権国家の成立と、インド洋で主流だった「人の支配」の間に齟齬が起きたと指摘する。
主権国家とは、明確な国境で支配領域を囲い込み、その領域内にあるとされるものは、信仰も含めてすべて支配しようとする政治体制である。オランダ東インド会社が、オランダ王国の公認を得て、オランダの国旗を掲げたのが、まさに代表的である。一方、インド洋海域では、領域よりもまず人間を支配しようとしたという。領域は曖昧で、域内外をわける「国籍」のような概念もない。領域内にある政治権力は重層的で複雑に絡み合い、最高権力はこれらを調整しながら柔軟に統治しなければならず、その意味では、たとえ外来の人々でも、利害の調整さえできれば、領域内でかなりの程度において自由に行動できるのだ。
東インド会社も、当初は利害の調整ができる外来者であった。実際彼らはインドやペルシャの政治権力から破格とも言える好条件を引き出し、地方の徴税権・行政長官職を得ることさえあった。しかし、インド洋では権力が重層的に絡み合うため、個々の役人から地元の有力者までが徴税と行政に参画している。そんな状態にもかかわらず、東インド会社は主権国家の論理で一元的統治しようとした。二つの異なる政治秩序がここで出会い、混乱が起きるのも当然だった。そのとき、より強大な軍事力を持つ方が、悪魔に成り下がったのである。
それなら東アジアはどうか。江戸日本について、羽田は次のように語る。
前述のインド洋海域と比較すれば、日本は、西洋と類似した領域支配の意識があったからこそ、西洋と同じ視座で貿易要請を拒否したり、または限定的に受け入れることができたということになるだろう。一方、明の場合はかなり複雑である。当時の明は「一片の木の板さえ海に出ることは許さぬ」と言われるほど、領民の海洋利用を禁じる政策をとっていた。朝貢貿易こそ行われていたが、この各国が形式上明に臣従し、使節に同行する商人に限って貿易を許可する手法は、羽田に言わせれば、各国の商人は各国が管理すべきという意識の表れであり、「国」と「人」の一致が見られるという。そこには、明確な領域意識があったといえよう。
しかし、実際は明の沿海部において、密貿易がなかば公然に行われていた。明代に書かれた小説には、海に出てひと稼ぎする話が多数あり、書き手も物語に出てくる主人公も、そのことを違法とする意識がない。国が領域を全く管理できていないということであり、したがって民間レベルではインド洋海域と似た意識で利益の調整が行われていたと思われる。広大すぎる帝国ゆえ、このようなハイブリッドな構造となるのも致し方ない。むしろ、そのような状態に、今のぼくは心躍るのである。
「中国」がほとんど登場しないこの本について長々と書いてきたが、ここでようやく「中国を読む」シリーズに本書を入れる意義が明らかになる。明を語るとき、中国の歴史教科書や政治教科書は、マルクス主義史観にしたがって、その時代に「資本主義の萌芽」があったとする。日本の著名な学者である島田虔次と溝口雄三も、明代の思想からいわゆる近代につながるものを見出そうとした。それぞれの論点は大きく異なるが、西洋由来の近代が前提となっていることは同じだ。しかし、歴史はある目的に向かって進むものではない。果たして明の沿海に暮らしていた人たちの日常生活は、どんな状態だったのだろうか。清はどうか。長崎に頻繁に渡航していた彼らの意識のなかで、明と日本は二つの異なる国家であったのだろうか。もしそうでなければ、東アジアにおいていつから今のような国民国家の意識が形成されたのか。国民国家が弊害が日ごとに顕著になる今、それを乗り越える術はないのだろうかーーそんなことを考えながら、しばらく読み進めていきたい。
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