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起死(魯迅『故事新編』から)

魯迅
竹内好 訳
岩波書店1979

たぶん中学生のころだったか、読書家の母に勧められ、魯迅の『故事新編』を読んでみたことがある。母の蔵書である単行本は紙が色焼けし、経年によるシミもところどころあり、とても面白そうには見えなかったが、「なんかふざけていて、とっても笑える作品なの」と言う母の言葉を信じ、「奔月」(月にとびさる話)を読んでみることにした。物語に登場するのは子供でもよく知っている美女仙人の嫦娥と彼女の夫の后羿、後者は大地を焼き尽くす寸前の太陽を射落とした大英雄だ。そんなセレブ同士の夫婦だが、魯迅の手にかかれば、世人が羨む天人の生活を送るどころが、日々些細なことで喧嘩を繰り返す世俗的な暮らしを余儀なくされる。たとえば、狩りから戻った后羿が鴉しか獲れず、「今日も、やっぱり運が悪くてね、どうも、鴉ばかりが…」と嘆くと、お嬢様嫦娥はたちまち「フン!」と柳眉を逆立て、部屋から出ていきながら夫を罵るのだ。

「またも鴉のジャージャー麺またも鴉のジャージャー麺!聞いてみるがよい、どこの誰が、年がら年中鴉の肉のジャージャー麺ばかり食べているか?なんの因果で、あたしはこんなとこへ嫁に来て、年中食べさせられるのが鴉のジャージャー麺!」

いくらゲテモノ食いの中華料理とはいえ、鴉を食べるのは聞いたことがない。鴉肉のジャージャー麺などなおさらである。そんなふざけた会話を随所に散りばめた「奔月」は、息詰まる重苦しさを持つ他の魯迅作品と比べ、少なくとも見かけ上は軽さを演出する。だから少年のぼくは、作者の真意がよくわからないながらも、話が面白いからさらに読みすすめることができた。

もう一つよく覚えていて、そして最も好きな話は、鍛冶名人の父親を王に殺された少年が、父が残した剣を携えて復讐に行く「鋳剣」(剣を鍛える話)である。「眉間尺(眉毛同士の間隔が1尺)」という一見ふざけた名前を持つこの少年も、実は伝承に登場する人物だ。敵を討とうにも勇気が出なかった少年だが、なぜか通りかかりの黒衣の男に全幅の信頼を寄せ、自分の首を預けて復讐を依頼する。そして黒衣の男も自分の命を犠牲にして約束を果たすのだが、話の流れ自体は伝承とほぼ同じで、魯迅の独創ではない。それよりも、次の描写が、魯迅の縦横無尽な想像力と筆力を強烈に印象づける。

眉間尺の首で奇術を演じ、王が気を取られた隙に復讐を果たす場面
「王は立ち上がって玉階をおり、暑さをこらえて鼎のふちから中をのぞき込んだ。水は鏡のように平らである。首は水中に仰向けに横たわって、眼を王に向けていた。王の視線が自分に注がれると、にっこり笑った。その笑顔を見て王は、見覚えがあるように思ったが、すぐには思い出せなかった。はて誰だったか考えているとき、黒い男は背の青剣を手に掛け、電光のようにさっとひと振り、ぼんのくぼめがけて斬り落とした。ポトンと音がして、王の首は鼎に落ちた。
    仇同士は目ざといもの、ました狭い場所での出会いとなれば格別である。王の首が水面に届くのを待ちかねて、眉間尺の首はその耳たぶにがぶりと噛み付いた。鼎の水は沸いて音立て、2つの首は水中に死闘をくりひろげた、およそ二十合、王の首は五ヶ所の傷、眉間尺の首は七ヶ所の傷を受けた。王はずるくて、いつも敵の背後に廻ろうとした。隙きをつかれた眉間尺は、ぼんのくぼに噛みつかれて、ついに身動きできなくなった。今度こそ王の首は相手を掴んで放さず、じわじわ蚕食した。痛い痛いと思わず叫ぶ子供の声が、鼎の外にまで届いたようだ。
(中略)
   さすがに黒い男もギョッとしたらしいが、顔色は変えなかった。目に見えぬ青剣を握った腕をおもむろに枯れ枝のように振り上げ、鼎の底をのぞき込む格好で首を伸べた。突然、その腕がまがり、青剣が背後から振り下ろされ、剣が触れると同時に首は胴をはなれて鼎に落ちた。ポトンと音がして、真っ白飛沫が四方へ飛び散った。
   水に入るやいなや、彼の首は王の首に襲いかかり、がぶっと鼻に噛み付いて噛み切らんばかりにした。たまりかねて『アッ』と声を立てる拍子に王の口が開いて、眉間尺の首はあやうく脱出し、逆に王のあごにがぶっと噛み付いた。彼らは力を緩めるどころか、ますます力を合わせて上下に引き裂いたので、王の首は二度と口がふさがらなくなった。そこで今度は、餓えた鶏が米粒をついばむように、眼も鼻もめったやたらに噛み付いて、王の顔を一面傷だらけにした。はじめ鼎の中を転げ廻っていた王の首は、やがて呻くだけで動かなくなり、最後は声すら立てず、吐く息はあっても吸う息はなくなった。
   黒い男と眉間尺の首も、おもむろに口を閉じて、王の首から離れて鼎の内壁ぞいに一周し、死んだふりでないかどうかを確かめた。まちがいなく息絶えたとわかると、四つの眼はにっこり互いにうなずき、そのまま目を閉じて、仰向けに水底に沈んでいった。」

魯迅の最初の小説「狂人日記」にも、猟奇的描写があったが、「鋳剣」の詳細さやスペクタクルさには遠く及ばない。この描写にどんな意味があるのか、或いは特に深い意味はないのか、作品が1927年に書かれたことを思えば、同時代に江戸川乱歩が怪奇趣味で鳴らしたことと共通する背景も考えられるだろう。ただ、そんなことを知る由もない少年だったぼくにとって、『故事新編』はただ強烈な印象だけを残してくれた。

そんな少年時代の印象に導かれ、再度本書を通読したぼくは、素直に一つ一つの物語の出来の素晴らしさに感心した。『故事新編』に収録されたのは、中国古代の神話と史書に題材をとったお話で、女媧、后羿・嫦娥、大禹、伯夷・叔斉、眉間尺、老子・孔子、墨子、莊子、中国人なら誰でも知っている超有名人が主人公だ。しかも魯迅は、彼らの伝説的な活躍を再度繰り返すだけの無意味なことをせず、むしろ伝説のイメージをひっくり返すような生活感溢れる言動を描写した。まえがきでの魯迅の言葉の通り、「古人をもう一度死なせるような書き方をしなかった」ことによって、神様や有名人たちが実に生活臭あふれるキャラクターに生まれ変わっている。よくもまあ史書に基づきながら細部に手を加えるだけでここまで魅力的に仕上がるものだ。このブログでも取り上げたことのある著名な魯迅研究者の銭理群氏が評する通り、『故事新編』の段階の魯迅の文学的技巧は洗練の域に達し、『狂人日記』などに見られるような、作者が我慢できずに登場人物に自身の主張を語らせるやり方をしなくなった。性急になにかを訴えるのではなく、真意を物語の筋書きと登場人物の言動の裏側に巧妙に隠す、行間や余白を読み取れる人だけが真意にたどり着けるーーそんな一歩引いた、余裕さえ感じさせる魯迅の姿がここにあった。

そんな作品群のなかでも、掉尾を飾る「起死」(死人をよみがえらす話)は何重もの意味で興味深い。まず形式からして、魯迅作品には珍しい一幕劇となっており、全編会話のみで構成される。その上、メインキャラの一人である莊子は、魯迅が「莊子の毒にあたっていた」と述懐するほどかつて心酔していた思想家で、「狂人日記」の狂人にもその影が見られる。にもかかわらず、ここでの莊子は空疎な観念論を繰り返すだけの論客であり、何かにつけては「オレは王の勅旨をいただいている」「おまえは高名な漆園の莊子を知らんのか」と、権力や名声に頼る俗物として描かれている。果たして魯迅は、なぜこんな莊子を書いたのだろうか。

その理由を探るには、やはり作品そのものを読んでいかなければならない。「起死」のストーリーはこうだ。

旅の道中でドクロを見かけた莊子は、この人はなぜ死んだのだろうと知りたくなり、生死を司る神を呼び出しドクロを復活させ、あれこれ話を聞こうとする。復活した男は、実は数百年も前に背後から強盗に襲われ、金品と服をすべて奪われたのだが、本人はただ一眠りしただけのつもりでいて、服と荷物がないのは莊子のせいだと疑い、彼の責任を追及しようとする。困り果てた莊子は仕方なく警察を呼び、自分の高名さによって丁重に扱われ、その場から無事脱出する。しかし復活した男はなおも自分の服を取り戻そうと譲らず、ついには警察も困り果てて、別の警察を呼ぶことにしたところで、話はピタリと終わる。

『故事新編』のほかの話では、必ず英雄や賢人が登場する。たとえ今落ちぶれたとしても、過去には喝采と尊敬を集めていた人物として描かれる。しかし、「起死」の登場人物に立派な人間は一人もいない。莊子は上述の通り俗物で、警察は平民には威張りたおし、有名人と知るや一転平身低頭するだけ。生死を司る神でさえ、莊子の依頼に応え男を復活させたのに、莊子が困り男をもう一度殺してくれと頼んだときには、姿さえ見せない無責任さだ。三者三様の言動は、まさしく魯迅が何度も辛辣に皮肉った当時の中国の知識人と権力者の姿だろう。

それに対し、ドクロから復活した男は、知識人や権力者と対立する側に立つ者として、いわゆる大衆の象徴として構想されていると見なすことができる。このように考えた場合、次の会話が実に興味深く思えてくる。

男 ーーああ、よく眠った。どうしたね?(あたりを見回して叫ぶ)ヤ、ヤ、わしの包みと傘は?(自分の体を見て)ヤ、ヤ、わしの服は?(しゃがみこむ)
莊子ーーまあ落ち着け。慌てるでない。おまえは今生き返ったばかりだ。おまえの持ち物はとうに腐ってしまったか、それとも誰かに拾われたのだ。
男 ーー何だと?
莊子ーーまず聞こう。おまえの姓名と住所は?
男 ーーわしは楊家莊の楊大でさ。学名は必恭っていいますがね。
莊子ーー然らばおまえは、何しにここへ来たのかな?
男 ーー親戚とこへ行くんでね。うっかりここで眠ってしもうた。(おろおろして)わしの服は?わしの包みと傘は?
莊子ーーまあ落ち着け。慌てるでない……まず聞こう。おまえはいつ頃の人間かな?
男 ーー(不審そうに)何だって?……「いつ頃の人間」とは何のことかね?……わしの服は?……
莊子ーーチェッ、おまえという男は、その知恵でよく生きておられるなーー自分の服ばかり気になりおって、徹底した利己主義者だぞ。人別さえはっきりせんで、衣服など問題になると思うか。

男は素っ裸だ、その状態で服が気になるのは当然というものだが、莊子はそれを「利己主義」とレッテルを貼る。しかも莊子は、「いつ頃の人間か」にのみ興味を持ち、目の前にいる男を見るのではなく、その周りの環境を探ろうとする。そこで、会話は次のように進む。

莊子ーーだからわしはまず最初に訊ねておる、おまえはいつごろの人間かとな。やれやれ、わからんのだな……しからば(考える)まず聞こう。おまえがまだ生きておったころ、村にどんな出来事があったかな?
男 ーー出来事?そうそう、きのう、阿二のかかあと阿七のばばあが喧嘩したっけ。
莊子ーーもっと大きなことはないかな?
男 ーー大きなこと?……じゃあ、楊小三が孝子ってんで表彰されて……
莊子ーー孝子の表彰とはいかにも大事件……だが考証がめんどうだな……(考える)何かもっと大きな、みんなで大騒ぎしたような出来事はないかな?
男 ーー大騒ぎ?……(考えて)うん、そうそう、あれは三ヶ月か四ヶ月前かな、子供の魂を取って鹿台の土台固めにするってんでな、みんなおったまげて、上を下への大騒ぎでさあ。あわててお守り袋をこさえて子供の体に……
莊子ーー(驚く)鹿台だと?いつの鹿台かな?
男 ーーつい三、四ヶ月前に工事をはじめた鹿台でさあ。
莊子ーーではおまえは、紂王のころに死んだのだな。いやはや、死んでもう五百年以上になるのだ。
男 ーー(むっとして)先生、わしはおまえさんと会うのは初めてだ。冗談はやめてくだせえ。わしはここで、ちいっと眠っただけだ。死んで五百年以上になってたまるか。わしは用があって親戚へ行くんだ。服と、包みと、傘をはやく返してくだせえ。おまえさんと冗談こいてる暇はねえだ。

莊子が確認しようとしているのは、男が生きた時代起きた大事件であり、それによって男の年代を確定しようとする。しかし、男にとっての出来事は、自分が暮らす村の日常生活でしかない。それでも莊子は、紂王の鹿台という大事件によってなんとか男の年代を突き止め興奮するが、男にとっては何の意味もない。消えた服と荷物を一刻も早く取り戻すことが、現時点での彼の関心事のすべてである。莊子を知識人の象徴だと見るのならば、彼によって蘇った男は、知識人が「啓蒙」を通して呼び覚まそうとする大衆だということになる。しかし、大きな歴史ばかりを眺め、観念的な議論を繰り返す莊子に対し、男は郷里の卑近な生にのみ執心する。この見事な対比によって、知識人の議論が決して大衆に届かない様子が、簡潔でありながら生き生きと描かれている。誠に恐るべき筆力だ。

それなら、知識人の代表である莊子の空疎さを際立たせることで、魯迅は大衆をせり上げようとしたのだろうか。たしかに、作品が書かれた1935年に思いを致せば、中国共産党がメキメキと力をつけた時期と重なる。魯迅は共産党に加入していないが、一応「中国左翼作家連盟」の重要メンバーであり、左派に属する立場にあった。彼が共産党の大衆路線に心打たれた可能性はあるのだろうか。

結論から言えば、それはありえないと断言できる。魯迅は当時、共産主義者の郭沫若らと激しい論争を繰り返しており、中国共産党の路線に共感していないことが明らかである。その上、中国共産党が構想する大衆と、魯迅が「起死」で描く大衆はあまりにもかけ離れている。前者にとっての大衆とは、プロレタリアートという階級に属する存在であり、いずれブルジョアジーを打倒し、階級そのものを消滅させる革命の主力と位置付けられる。したがって共産党は、大衆信仰とさえ呼べるほど大衆の存在そのものを極めて高く評価する。それに対し、魯迅の描く男は、「裸」である。衣服をつけず、外見からはどの時代のどんな職業の人かが全く読み取れず、一切の先入観による判断を拒絶し、彼自身の言動から彼という人間を観察するしかないのである。その言動にも、読者を感心させるところがまったくない。莊子の小難しい議論には耳を貸さないし、気になるのは自分の財物と身近な人々だけ。御大層な理念が彼の思考に入り込む余地はなく、プロレタリアートなどという、特定の価値を付与された階層のいち員として描かれているはずがない。一切の歴史的筋書きと権威から押し付けられた規範を排除し、ただそこに一人の人間が生きているだけ、これが「起死」の描く大衆の姿である。

そして、ぼくからすれば、これこそ「起死」の輝く所以でもある。かつて知識人の立場から痛烈な大衆批判を繰り返した魯迅は、何度も絶望に打ちひしがれながらも思考を続け、ついに自分自身をも否定し、最終的に前提条件を一切排した人間そのものの存在にたどり着いたのである。しかし、あまりに残念なことに、魯迅は自分が思考する人間そのものの姿を、さらに敷衍して中国の人々に伝えることができなかった。この優れて哲学的な作品の完成からわずか10ヶ月後、魯迅は55歳の早すぎる死を遂げてしまったのだ。

魯迅がキルケゴールに言及していることを考えると、思想史的に「起死」を実存主義の流れで読み直すことができるだろう。そこから魯迅全体を位置付け直し、「魯迅が構想した実存主義的人間像」のような研究を行うことも可能だ。しかし、晩年の魯迅の読んだぼくは、何らかの主義、流派に魯迅を閉じ込めることが、実は始めから大きなミスではないかと思い始めるようになった。むしろ魯迅は、いかなる既成の理論をも拒否したところから読まれるべきではないだろうか。そして読み進むうちに何らかの理論に接近しそうになったら、その理論と魯迅のテキストを突き合わせ、さらに読む人自分自身の生とも突き合わせ、理論を消化すると同時に、それを否定し再出発しなければならないのではないか。最終的には、魯迅さえをも否定することを目指して。

(魯迅の作品に関する感想は一旦終了。これまでの3回は下記の通り)


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