赤門志異(ワーキングプア、その2)
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田山先輩に話を聞く機会は、予想外なことに、すぐにやってきた。その日の夜は、恒例の就活パーティが行われ、スーツを纏った就活成功者は、学生の飲み会らしからぬ上品さで盃をかわし、なかにはすでに名刺交換を始めているツワモノもあった。そんな集団に、単なるお手伝いのぼくは入ることができず、かといっておばさんと話し込むほど物好きでもない。さて、どうしたものかと、好物の唐揚げを一人で頬張っていると、ウーロン茶のコップを持った田山先輩の姿が見えた。「おや」と思うまもなく、先輩は近づいてきて、ジャージの裾を直しながら言った。
「キミも哲学専攻なんだって?」
「はい、そうです。よろしくお願いいたします!田山さんも、来てたんですね!」できるだけ礼儀正しく見えるように、ぼくは直立して答えたが、先輩は目やにの取れていない顔で笑い、「なんだ、『も』来てたというのは、来ちゃ悪かったかな」と早速後輩をいじってきた。
「いえ、そういう意味では…ただ、なんか、こういう場はお嫌いなのかと…」
「いいよ、取り繕わなくても。ここは就職できた人たちが今後のために人間関係を作っておく場だ。就職出来なかったヤツが来るなんておかしい、そう言いたいんだろ?あのな、ただで美味しいご飯が食べられるんだ、来ないわけがないよ。」
一瞬にして話を主導権を握られたぼくは、窮状を隠そうとオレンジジュースを一口飲んだが、甘酸っぱさがまるで固体のように喉に引っかかり、遅々として飲み込めないことにさらに苦しんだ。そこに、スーツ組との挨拶を一通り終えたおばさんがやってきて、最高のタイミングで助け舟を出してくれた。
「田山くん、またダメだったね。どうするのあんた?」
「どうもしませんよ。次があるじゃないですか。」顔なじみのおばさんを前にしても、先輩は飄々とした態度を変えずに、頭をかきながら言った。
「次たってねえ…あんた、大学にいられるのはあと半年くらいしかないんでしょ?それまでに決まらなきゃどうするの?」
「そんときゃあそんときゃです。それに、就職なんて、するもんじゃないですよ、ね?」そう言って先輩はぼくの方に向き直り、同意を求めるように聞いてきた。
「はあ…まあ、ぼくはまだ考えていないので、なんとも…」
「考えなくていいよ。就職はするもんじゃないって。キミ、通電って知ってるだろう?」
「日本最大手の広告代理店の通電ですか?」
「そう、そこ。なんで通電という社名か、知ってる?」
「知りません。なんででしょう?」
「その名の通り、入社した新人は全員電気椅子に座らされて、通電されながら研修を受けるんだからだよ。」
「ええ?!いやいや、そんなのありえないでしょ!死んじゃいますよ!」
「死んだらそこまで、生ゴミとして処分されるだけさ。これくらい耐え抜くことができなければ、どうせ仕事で潰れて死ぬからね、あそこは。」
「うそでしょ!?本当ですか?いやそれ死体遺棄ですよ?犯罪ですよ?」
「本当だよ。死体遺棄くらいで通電はびくともしないさ。生き延びたオレの友達がそう言ってたもん。おばさんも本当は知ってるんでしょ?ね。」
そう言われたおばさんは否定も肯定もせず、「フン!」とだけ言って立ち去った。先輩は「ほらね、否定しないでしょ」と勝ち誇った顔で、さらに続けた。
「それから、白鳳堂も知ってるよね?」
「そこも大手広告代理店ですよね?」
「そうそう、そこの社名の由来は知ってる?」
「いや、知りません…またなにか酷いことでもするんですか?」
「その通り。白鳳って横綱いるだろ?ここはな、その横綱に依頼して、毎日張り手100発を食らう研修をするんだ。だから白鳳堂なんだよ。」
「いやいや、さすがにそれはおかしいですよ。第一、白鳳が引退したらどうするんですか?」
「おや、知らなかった?白鳳堂はもともと青龍堂という名前だったんだよ?だからまた次の横綱に社名を変えればいいさ。横綱たちにとってもいい話だよ、なんてたって、生身の人間を遠慮なく殴ることができるからね、殺してもお咎めなし、彼らの強さの源は、新入社員の血なのさ。」
そう話す先輩の顔も、ますます血の色で紅潮してきた。手に持っているウーロン茶をがぶ飲みし、さっきの話にショックを受け黙り込むぼくに向かって、一段とトーンを上げて言った。
「だからな、キミ、就職なんて、するもんじゃない。とくに大企業や官公庁、本駒大生が行きたがるところには、絶対に行くな。ああいうところはな、人間には耐えられない苦痛を肉体精神の両面から与え、それでも生き抜いた人しか働けない。だがな、考えてみろ、人間に耐えられない苦痛を耐え抜いたのは、当然人間ではない。あれは、人間をやめたなにか別の生き物だ。つまり、人間をやめなきゃ、働きつづけることができない。ここにいるスーツ連中は、みんな人間をやめたがっているんだよ!」
叫ぶように最後に一言を放った先輩に、パーティ会場は静まり返った。ワイン、シャンパン、ビールを手に持った集団から、一斉に刺すような視線が先輩に注がれる。「先輩、飲みすぎですよ」と、ぼくはなんとかごまかそうとするが、「ウーロン茶なんかで酔うか!」と先輩は人の好意を無下にし、ゆっくりとパーティ会場から出ていってしまった。気まずい沈黙はやがて、「なんだあいつ」「たしか就職できなくて有名な人だよ」「大学近くのラーメン屋でバイトしてたの見たことあるわ」と賑わいを取り戻し、残されたぼくはどうすればいいのかわからず、立ちすくんでいるしかなかった。
(続く)