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中国を読むーーはじめに

この1年間ほど、中国でも日本でも、アメリカでもフランスでも、自分が身を置くこの世界のすべての国が嫌になり、やがて人類社会そのものに嫌悪を覚え、人間不信になり、30数年かけて培ってきた価値観を疑い、世を捨てて隠遁したいと思ったことは、ない。
また、この1年間ほど、日々不安のなかで過ごし、やがてその不安に慣れた自分を不安に感じ、いつの間にかなにを不安に思っているのかもわからなくなり、ついには五里霧中の暗中模索を繰り返し、自分の生きる価値をも疑ったことは、ない。
そして、なにより、この1年間ほど、毎日のように考え込み、読む本見る映画すべてが思考を突き動かし、その結果世界の将来を憂慮し、富める無責任な輩を恨み、死にゆく弱者を嘆き、政治家に燃え盛るほどの怒りを覚えたことは、ない。

私はもともと、感極まることはあっても、深呼吸すれば落ち着き、一睡すれば忘れてしまう冷血な人間である。だが、あまりにも複雑な出来事を目の前に見せてくれたこの1年は、逆説的に私の生活をこの上なく単純なものにした。その結果、私の感情と私の思考は、多彩で新鮮な刺激に溢れたな日々の生活という保護層を失い、直に世界と対面するようになった。打てば響き、間髪入れずにダイレクトに反応するようになった。そのときの世界に溢れていたのが醜悪さだとすれば、感情と思考が一気に燃え上がるのも無理はない。そして、一度燃え上がった怒りは、そう簡単に消えてくれそうにない。火をつけてくれたのはこのろくでもない世界だが、燃料はもともと私の中にあるものだ。それらが燃え尽きるには、あとどれくらいの時間が必要なのだろうか。

この1年間は、司馬遷を繰り返し読んだ1年でもあった。怒りの形がぼやけてしまいそうになるとき、司馬遷はその形を再認識させてくれた。怒りに我を忘れそうになるとき、司馬遷は理性の言葉で語ることの大切さを繰り返し教えてくれた。もはや私のバイブルになった感さえある『史記』、怒りを燃やし続けながら『史記』を書きあげた司馬遷、彼が投げかけた数え切れない問のなかで、今この時点で私の頭に最も強く残るのは、次のものである。

「『天道はえこひいきせず、常に善人に与す』と人は言うが、清廉潔白この上ない伯夷、叔斉は、遂には餓死してしまった。孔子の最高の弟子の顔回は貧困のうちに早逝した。天は善人にこうやって報いたとでもいうのだろうか。大盗人の跖は毎日人を殺し、その肉を食べ、徒党数千人ととも天下を恐怖に陥れたのに、天寿を全うした。彼に何の徳があったというのか。これでも、わかり易い例を上げただけである。近頃の世の中を見れば、悪行不徳を繰り返した人間が、逸楽な生活を送り、数代尽きることのない富を築き上げた例は枚挙にいとまがない。その一方で、公正を貫き通し、決して言行を曲げなかった者が、災禍に見舞われることも数え切れないほど見てきた。私にはわからない、天道なるものは、果たして正しいのだろうか。」

「天道なるものは、果たして正しいのだろうか」、これは『史記』全編を通して最も有名な問いの一つであり、司馬遷がもっとも臆せずに内心をさらけ出した箇所でもある。この章は「伯夷叔斉列伝」であり、賢人2人の人物伝を書くべき章である。それなのに、司馬遷は伝記を早々に終わらせ、伝記の数倍もの紙幅を使い、彼の困惑と苦悩をすべてここにぶつけ、その筆致は、活字で印刷されている出版物であるにも関わらず、血書をも凌ぐ凄みを持つ。故に内藤湖南は、この章を評して、「これこそが史記の序」と言った。誠に至言である。

司馬遷は「天道なるものは、果たして正しいのだろうか」と問いかけた。しかし、結論は遂に一度も出していない。そのかわり、彼は歴史を生き生きと描写し、歴史上の出来事、歴史となった人々の言行によって、これまでの歴史のコンテクストを明察し(通古今之変)、歴史そのものに語らしめようとした。もとより、それは100%完璧な歴史の鏡写しではない。だが、そうした人の手を経た「記録」、「一家の言」こそ、鏡写しにするだけでは実現できない歴史への問いを行うことになるのである。司馬遷のような偉大な質問者が投げかけたどこまでも深い問いかけは、数千年の時を経ても生命力を全く失わず、後人は彼の問いから自分の生きる時代を思考することが可能となる。問いは問いのままに保存されているからこそ無限の価値を持つのであり、結論を出すことは厳に慎まなければならない。結論を出した瞬間、問のなかで生き生きと流動していた歴史は、たちまち評価を下され、淀んだ水に変わってしまうからだ。

そんな司馬遷のマネを、少しはやってみようという気に、ぼくは今なっている。もちろん、大それたことを言っているのはよくわかっている。史聖の爪の垢を煎じて飲んでも彼の足元にも及ばない私には、それだけの筆力も頭脳も、決心も根気もない。だから私は、司馬遷がやったことのほんの一部を真似てみることにする。それはーー

読み続けること、書き続けること。

である。

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